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『難経本義諺解』とは

それでは、『難経本義諺解(なんぎょうほんぎげんかい』)で気になったこと、調べたことなどを書いていこうと思います。

まず最初は、『難経本義諺解』ってそもそもどんな本ってとこからです。

まず『難経(なんぎょう)』という古典があります。これは経絡治療等で使われている古典です。
詳しくは、ここをご覧ください。

この『難経』は、秦 越人(しん えつじん)が書いたとされている本です。越人は別名を扁鵲(へんじゃく)といいます。
『難経』の文章は簡潔に書かれているので内容を把握するのが大変です。そのため、有名な歴代の鍼医が注釈をつけてきました。

その中の1冊が元の滑 伯仁(かつ はくじん)による『難経本義(なんぎょうほんぎ)』です。
さらにその『難経本義』に注釈をつけたものが、江戸時代の岡本 一抱(おかもと いっぽう)による『難経本義諺解(なんぎょうほんぎげんかい)』となります。

少しややこしい経緯となっていますが、ここらへんの注釈書(解説書)をまとめてみると、

『素問』、『霊枢』
     |
     | 秦越人による解説
    ↓
   『難経』
     |
     | 滑伯仁による注釈
    ↓
 『難経本義』
     |
     | 岡本一抱による注釈
     ↓
『難経本義諺解』

となっています。
実際に『難経本義諺解』を見てみると、岡本一抱はかなり細かく注釈をしていることがわかります。
この注釈の文や、『難経本義』自体の文で気になったこと、調べた事をこれから書いていこうと思います。

そうすると、手元に『難経本義諺解』や『難経本義』が手元にない人にとっては意味が分からない部分もたくさんでてきてしまうと思うので、本文も書き下し文で挙げていこうかと思います。
ただ、岡本一抱の注釈までいちいち書いているとかなりの分量になってしまいます。その為、特に気になったところ以外は『難経本義』の文のみを載せることにします。

そんな感じで進めていこうと思います。
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『難経本義諺解』 発端の辞

それでは、やっていこうと思います。
まずは発端の辞。
これは『難経本義』(以下、『本義』)の原文にはなく、岡本一抱が書いたものですが、いろいろ役に立つ情報がちりばめられているので載せていこうと思います。

発端の辞
難経は、戦国の秦越人の選ずる書なり。越人のは伝は史記の列伝、及び戦国策(せんごくさく)(つまび)らかなり。越人は勃海(ぼっかい)鄭人(ていひと)なり。姓は秦氏、名は越人と(なづ)く。或いは(いわゆ)性は秦、名は少斉越人なり。

越人少時(しょうじ)人舎(ひとや)の長たり。客に長桑君(ちょうそうくん)と云う者あり。出入すること十余年、桑君或る時越人に語りて曰く、我に秘法あり。(われ)年老おいぬ。此れを公に授けん。もらことなかれ。懐中の薬を出し、上池じょうちの水を以て越人に飲ましむ。此の後三十日にして自然に事物の理を知ること有るべし、と。又秘法の医書を出し、(ことごと)くに授けて忽然こつぜんとして見えず。果たして後三十日、越人垣の一方の人を視て其の病を知ること明らかなるに至れり。脈を(つまび)らかにし、病を決し、神医となる。医を為して(せい)及び(ちょう)に在りては呼びて扁鵲へんじゃくと名づく。(けだ)(いにしえ)黃帝(こうてい)の時に扁鵲と云う神医有り。越人の医を以て彼に比べて世人扁鵲と称す。又、廬国(ろこく)に家居す。(よ)(な)づけて廬医(ろい)と云う。後世、廬扁(ろへん)と称す者が是れなり。

趙簡子(ちょうかんし)が病を知り、(かく)の太子の死を(た)だし、(せい)桓侯(かんこう)の病を察する等の神術有り。後、(しん)太医令(たいいれい)李醯(りけい)と云う者、己れが医業の越人に及ばざるを以て密かに越人を刺し殺す。

死して後、難経の書伝えて後漢の華佗(かだ)之を(たも)つ。医業甚だ常道に超えたり。病を治するに摩沸湯(まひさん)と云う神剤飲ましむれば、其の人酔えるが如しが時に、皮を裂き、骨を洗い、腸を(すす)ぎ、薬線(くすりいと)を以て縫うて之を(いや)す。其の術甚だ妙なり。

後漢書(ごかんじょ)に謂る、(ぎ)曹操(そうそう)頭痛を患う。華佗をして治せしむ。鍼をして即ち(い)ゆ。操(よろこ)びて常に華佗を侍坐(じざ)せしむ。或る時、佗が妻病すと云て退きて来られず。操ひそかに人をして聞かしむれば、妻が病むに非ず。偽れるなり。曹操甚だ怒りて華佗を捕えて獄に込む。已に罰せられんとするときにおいて、佗ひそかに獄史に告げて曰く、吾に秘法あり。難経と(な)づく。之を汝に授けん、と。史恐れて敢えて受けず。佗遂に難経を獄下に(や)く。時の人之を聞きて(とど)めて其の煨燼(かいじん)を求めうて後世に存ず、と。

○三国志に謂る、魏の曹操頭風を患う。華佗を召して診視(しんし)せしむ。佗が曰く、此の病脳海(のうかい)に在り。頭に斧して(わ)りて脳海を(すす)ぎて(いや)さん、と云う。操の曰く、(われ)聞く、脳海は神気の府聚(ふじゅ)する(ところ)と。然るを何ぞ(やぶ)らんや。汝は余を殺さんとする者なり、と云て遂に佗を捕えて獄に込む。獄史の一人、毎日食を(ささ)げて(いたわ)る。佗其の志を感じて難経を授く。史(よろこ)びて家に帰り、妻に云いて深く(かく)し、(われ)獄を(とど)めて神医を行わん、と云う。時に遂に華佗は罪に決して殺さる。(か)の史、己れが役を勤め終わりて家に帰れば、其の妻難経を庭中に(や)く。驚き(とど)めて煨燼(かいじん)を存す。史其の故を問えば、妻が曰く、華佗は此の難経に(よ)って神医たり。君も亦た此の書を学べば佗が如き神医となることを得ん。然らば、亦た曹操の如き非道に遇うて罰せられしことの有るべきを恐れて此の如し、と答う。

以上の両説に従るときは、難経は越人扁鵲の著述にして、後漢の華佗に伝わり、佗が時に至りて其の書を獄下に(や)く。今、存する所の者は、其の(や)け余りを伝えて呂広(りょこう)と云う者重ねて校編(こうへん)せるなる。故に、今の難経においては文義に或いは疑いを致すこと有る者あり。


以上、発端の辞です。
ここでは、『難経』の経緯についての説明があります。
越人が神医になった経緯や病気を治した事例については、『史記』しき扁鵲倉公伝へんじゃくそうこうでんに詳しく書かれています。越人の記録は『戦国策』にも載っているようですが、僕は未見ですので分かりません。華佗が『難経』を持っていた云々の前までは『史記』扁鵲倉公伝から引張ってきたものでしょう。興味のある方は扁鵲倉公伝を読んでみても良いと思います。余談ですが、ここには扁鵲の事績のみならず倉公(淳于意じゅんうい)についても書かれています。

その後は華佗が秘術として伝わってきた『難経』が一躍世間に出てきた理由が書かれています。
2つ説があるようですが、つまるところは

魏の曹操の怒りに触れて処刑された時、『難経』も一緒に焼けてしまった。其の時に彼の医術を惜しんだ人たちが、焼け残りの中から必死に文字をひろい出した。それを呂広が再び編集したものが今の『難経』のルーツとなった。
ということです。

扁鵲自身が伝説上の人物ですし、扁鵲の事績の時代がばらばらであることから扁鵲という医術集団があったという説まであるぐらいです。ここに書かれていることがどこまで正しいのかはよくわかりません。
また、後の序にもでてきますが、『史記』には越人が『難経』を作ったというふうには書かれていません。
普通は、「越人はこれこれの書を記した」ぐらいは書かれると思いますが、それがないのです。
隋書ずいしょ経籍志けいせきしにおいて

『黃帝八十一難経』二巻。 梁に『黃帝衆難経』一巻、呂博望の註有れどもほろぶ。


とあり、これが『難経』の名前が最初に出てきた文献となります。
また、『旧唐書ぐとうしょ経籍志けいせきしには、

『黃帝八十一難経』一巻。 秦越人の選。


とあり、ここで初めて『難経』の作者が秦越人であると記されました。
時代がかなり後になってから秦越人の書となったわけですから、あやしい部分もあります。
ですが、これらの経緯をふまえて『難経』は秦越人の書となったわけです。

ここは、これぐらいですかね。
次は4つ序がある一番最初の序についてみていこうと思います。

『難經本義諺解』 掲(けっこう)の序

では、続きを初めて行きたいと思います。
4つある序の中でまずは掲の序です。

難経本義序
一段
素問、靈樞(霊枢)(医)の大(経)、大法(ここ)に在り。後世諸々の方書(ほうしょ)皆此れに(もと)づく。然れども、其の言簡(ことばかん)古淵涵(いにしええんかん)にして未だ通曉(つうぎょう)し易からず。故に秦越人(発)して八十一難を為す。其の義を推し明らかしむる所以(ゆえん)なり。

二段
然して、越人古を去ること未だ遠からず。其の(ことば)も亦た深く、一文一字の意(あまね)ねく(旨)(つまび)らかなり。故に之が註釋(注釈)を為す者も亦た(数)十家。たんに各おの臆見(おっけん)を以て(つい)歸一(帰)(きいつ)の論無し。或いは此を得て彼を失い、或いは前を(挙)げて(しり)えを(のこ)す。(ただ)(みずか)ら誤まるのみに非ず。又、以て人誤まるを(し)る者は(これ)を病む。

三段
許昌の滑君伯仁(かつくんはくじん)篤實詳敏(とくじつしょうひん)、博く群書を極めて(医)に工たること三、四十年。(はい)(ただ)し、(こ)(い)やすことを(あ)げて(しる)すべからず。遂に(昼)(おも)い、夕べに思いて(あま)ねく推し遠く(もと)めて難經本義二卷を作る。

四段
其の精微を(わか)ち、其の隠賾(いんさく)を探り、其の玄要を(の)り、疑わしき者は之を(弁)じ、誤まる者は之を正し、諸家の善なるは之を取る。是に(お)いて、難經の書(ことば)遠く、(ことわり)明らかに條分縷觧(じょうぶんろうかい)して、素問、靈樞(霊枢)の奥も亦た是由りて得たり。

五段
夫れ人の生死は(医)に係る。(医)の本原は(経)に出づ。(経)(旨)明らかならずんば、其の害(あ)げて言うべけんや。然る(とき)は伯仁の功、(あ)に小補なる者ならんや。

至正二十六年二月 工部即中 掲(けっこう)の序


*一段、二段、三段、…とあるのは『難経本義諺解』によって補っています。段とは段落のことです。
*()において、ひらがなはその漢字の読み方。漢字は現在通用する漢字。

これは掲が書いた序です。序には岡本一抱による注釈があります。

○凡(およ)そ序に自序と他序の两(両)法あり。自序は己が書に自らするが故に兼退の辞(けんたいのことば)を以す。他序には稱(称)美の辞(しょうびのことば)多くす。此れ其の法なり。
○難經(経)本義の序、凡(すべ)て四つあり。伯仁の自序を始めとす。掲(けっこう)序を終りとす。如何(いかん)となれば、書を編みて自序を作りて先づ其の始めに冠(かんむら)しめ、後他人に請うて序を求める時は其の自序の上へに重ね續(続)く。復た序を求める時は亦た上に重ね續(続)く。故に首(はじめ)に在する所の序は終わりに出來(いでき)たる者とす。自序は反って始めに出來(いでき)たる者とすることを知るべし。


昔の本は紐で閉じていたので、後からいくらでも取り外し可能です。
先ず自分が序を書きます。もし他の人にも序(現代でいう推薦文みたいなものだと思います。)を書いてもらえた時は、自分の序の上に置き、更に他の人にも序を書いてもらえればまたその上から置いていきました。このように後に出来たのもを上へ上へ重ねていったので、最後に書いてもらった他序が始めにくるようになり、最初に書いた自分の序が最後にくるようになります。
ここでは、最後に書いてもらった掲(けっこう)の他序が最初に来ていることになります。

この掲序の内容は、
一段
『素問』と『霊枢』は医の基本ではあるけれども、書かれている言葉が簡潔で、一つ一つの言葉の意味が奥深い。そのため後学者が勉強しても意味が取りにくい。そこで秦越人がその言葉の解釈を八十一篇にまとめたものがこの『難経』である。
二段
だが越人も今では昔の人である。そのため今では意味が取りにくい部分もでてきてしまった。そこで越人よりも後の人がそれぞれ『難経』に注釈をつけてきている。その数は数十人。しかし、その注釈もそれぞれが思い思いにしているので、もともとの『難経』の意味とは違うものとなってしまった。それを読んだ後学者は間違った解釈を信じてしまう。これでは間違った解釈をした人だけの問題ではない。だから正しい意味を注釈した本がないことを知っている人たちはこのことを嘆げくのである。
三段
許昌に住む滑伯仁は思いやりがあり、智慮深い人である。いろいろな医学書を集めては医道に詳しいこと30~40年。長く病気に罹って回復しにくい人たちや、他の人では治すのが難しい病気を治しているというのはいちいち挙げればきりがない。その滑伯仁は『難経』に良い解説書がないのを嘆げいていた。そこで自身でいろいろな解説書にある、一つ一つの言葉の是非を一日中考え、ついに『難経本義』全二巻を作った。
四段
滑伯仁は『難経』の意味を明らかにしてその隠れた意味を探り求め、得にくくなった越人の意味を書き尽くし、『難経』本文の誤字等のおかしな所は指摘し、解説書の考え方の間違えを訂正し、解説書の中でも正しいものは取り入れたため、他には及ぶべくもない正しい解説書ができあがった。そのため、『難経』だけでなく、『素問』『霊枢』の意味も得やすくなった。
五段
そもそも人の生死は医によるものである。医の源は『難経』を含む『内経』にあるのだ。そのため『内経』の意味が分からなければ、それによる弊害は言うまでもない。だから滑伯仁の功績は決して小さいものではないのだ。
至正二十六年(1366年)二月に工部即中である掲が序す。

です。岡本一抱の注釈を混ぜてなんとか文章にしてみました。
岡本一抱の序の注釈にもあったように、他序は称美の言葉が多いというのがよく分かります。これでもか、これでもかって程、ほめちぎってますね。これがあと2つ続きます。

掲の序からは特に気になる用語とかはなさそうです。
それでは次は張翥(ちょうしゃ)の序をみていきたいと思います。

『難経本義諺解』張翥(ちょうしゃ)の序

どうもです。かなり更新がおくれてしまいましたが、張翥の難經本義序をみていきたいと思います。


難經本義序

一段
(医)の道(た)ること聖なり。神農(しんのう)氏、凡そ草木金石の(か)夭死(ようし)札瘥(さっさ)(すく)うべきを(こと)ごとく諸(経)つらねたまいてより、(しこう)して八十一難秦越人、軒岐鬼臾区の書(けんぎきゆくのしょ)に推し(もと)づきて、(むずかし)きを(ひら)き、疑いを(わ)かち、論(弁)詣(せいけい)してより、鬼神(きしん)(じょう)(のが)るること無き(万)世の法(た)り。其の道天地と(なら)びて功を立て、(あ)小補(しょうほ)ならんや。

二段
且つ夫人(ひとびと)七尺の(からだ)、五(蔵)百骸(ひゃくがい)を以て病を六(気)(れい)に受くれば、乃ち三指點按(てんあん)の下に(繋)く。一呼一吸の間に形影有ること無し。(こと)に其の洪、細、濡、伏を切にす。(も)し一髮(いや)しくも謬誤(びゅうご)或る時は、則ち脉(せい)にして(薬)之を(ころ)す。(しか)るを輕々(かろがろ)しく以て(医)(たん)すべくして、(たや)すく以て(医)を習うべけんや。

三段
(きん)(ぐう)する滑伯仁(かっぱくじん)(もと)(きょ)(いえ)いす。許は東垣(とうえん)を去ること近し。(つと)より李氏の(学)(な)す。遂に(医)に名あり。(よ)(もと)より之を聞きて未だ(し)らざるなり。今季(ことし)の秋(来)りて(せん)ずる所の難經本義を(おく)る。之を(けみ)するに、人をして(あら)たに敬ませしむること是れ有るかな。君が意を(医)(くわし)うし、(脈)絡、寸尺、部候、虚(実)條釋(条釈)(図)陳す。簡にして通。决にして明。予、未だ(かつ)(まな)ばざると(いえ)ども、思も亦た半ばに過ぐ。

四段
嗚呼(ああ)(医)の道は生道(せいどう)なり。道(めぐ)る時は則ち生意宇宙に(み)ち、澤流(たくちゅう)(きわま)り無く、人(寿)を以て死す。是れ則ち徃聖(おうせい)の心なり。世の(学)(よ)く各々一通を(かたわ)らに置きて深く求め、(つと)して(たっ)する時は、之良(医)(な)らざる者は(ほとん)(すく)なからん。

五段
嗚呼(ああ)、越人は我が師なり。伯仁我が為にせず、諸梓(しょし)(え)り、天下の人と之を共にす。是れ則ち伯仁の心なり。故に其の大指を(挙)げて序と(な)す。

至正二十四季 龍、甲辰に集る十月旣望 翰林學士 承㫖 榮禄大夫 知制誥兼脩國史 張翥序


以上張翥の序です。
翥の序の内容は、

一段
医道は聖人の道である。神農がいろいろな生薬を使い、寿命がつきる前に亡くなったり、疫病等で人が亡くなることがないよう、本草(ほんぞう)に基づいて治療をしていた。そして『難経』を書いた秦越人は、『黄帝内経』の議論を推し進めて難しい部分を分かりやすくし、おかしな所を明らかにした。その議論はしっかりしていたので、治療時には病邪がどこにも隠れ潜むことができなくなった。そのため『難経』は医者の宝となった。

二段
七尺の人の身体が六気の乱れから病を受ければ、示指、中指、薬指の三つの指で寸関尺を診る。このように脈診をするときは素早く行う。特に洪脈、細脈、濡脈、伏脈を診る。もし髪の毛一つ分でも誤りがあると、病気が治りやすい脈であったとしても薬でその人を殺してしまう。そのため軽々しく医を話すべきではなく、簡単だと思って医道を習うべきではない。

三段
現在、鄞(きん)に住んでいる滑伯仁の故郷は許である。許は東垣に近い。東垣には李杲(李東垣)が住んでいたので、その付近では李東垣の医のやり方が広まっていた。だから伯仁が医術を習い始めた時は既にそのやり方に影響を受けていたのだ。そして伯仁が医道で名をあげた。私(張翥)は以前より滑伯仁の名前を聞き及んではいたが、実際に会ったことはなかった。今年の秋に伯仁が私の家を訪ねて、自らが書いた『難経本義』を置いていった。これを見てみると、伯仁が名医であることを世の人々はよりいっそう思うだろうという内容だった。伯仁は医に詳しいので、経絡、寸尺、部候、虚実に至るまで、一条一条丁寧に註釈を加え、また図もつけて難経の本来の意味を説明していた。少ない言葉で議論の内容は深く、注釈は不確実なことなく明白である。私は今まで医道を習ったことはないが、この『難経本義』を読むことによって医道の思いを少しは得たように感じた。

四段
ああ、それにしても医道は生かす道であるなぁ。医道がきちんとなされていれば、人々は病気になることなく寿命をまっとうするのだ。生かす道とは、古の神農や黄帝が医道を始めた仁心でもある。世の医者は越人の思いがつまったこの『難経本義』を常にかたわらに置いて深く研究すれば、良い医者にならないわけがないのである。

五段
ああ、越人は私の師匠であるなぁ。伯仁は自らの得た『難経』の本意を自分一人に秘めることなく、天下の人々と議論するために『難経本義』を世に広めようとしている。これは伯仁の仁心である。だからその重要な点をまとめて序としたのだ。

甲辰の年である至正二十四年(1364年)十月十六日 翰林學士、承㫖、榮禄大夫、知制誥、脩國史を兼ねる張翥が序す。

まぁこんな感じでしょう。今回訳すのにかなり苦労しました(^_^;)
微妙な感じの言葉が多すぎるので…。今回『難経本義諺解』では訳しにくいところは『難経本義大鈔』を参考にしているところもあるほどです。

では、今回気になった言葉や、押さえておくべき言葉をあげていきます。

一段
神農
炎帝とも呼ばれています。本草の道、すなわち漢方の生薬の祖です。

札瘥
札は疫病等で人が多く死ぬこと、瘥は疫病等で人が少なく死ぬことを意味します。

諸經
神農本草経のことですが、ただ神農本草経の内容だけにとどまらず、口伝等で伝わってきた内容すべてを指します。

軒岐鬼臾区の書
『黄帝内経』のことです。軒とは軒轅のことで、黄帝のことです。岐は岐伯(きはく、ぎはく)で、鬼臾区(きゆく)と共に黄帝に医道を伝えた六人の臣下の1人です。
岐伯はいろんな篇に出てきますが、鬼臾区は運気七篇の1つである天元紀大論にしかでてきません。臣下の代表として岐伯と鬼臾区が出てきているのでしょう。

鬼神も情を遁るること無し
『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』成公十年の”病膏肓に入る”を参照してください。おもしろい話なのでこのブログでも別にとりあげて書くかもしれません。

二段
六氣
風寒暑湿燥熱のいわゆる六淫のことです。
『春秋左氏伝』には六気とは陰陽風雨明晦を挙げていますが、これは医家の常道ではないみたいです。

三段
東垣
地名でもあり、李杲の字(あざな)でもあります。
李東垣は金元四大家の一人で、身体の土を補うことを主とした「補土派」です。

こんなところです。張翥序で特徴的なのは本草のことにも触れていることと、医道は簡単なものではないと強調しているところでしょうか。一生勉強しないといけないと感じますね。

さて、次は序の三つ目劉仁本の序をみていきたいと思います。

『難経本義諺解』 劉仁本(りゅうじんほん)の序

今回は劉仁本の序です。
4つある序の3番目にあたります。

難經本義序

第一段
(さて)(神)(薬)を咀して寒温、辛酸甘苦、品製の宜しき(くん)(しん)(さ)使(し)の用、諸本草(ほんぞう)(そな)えたまいてより、(薬)を治むる者、(ここ)(お)いて依り(よ)る。黄帝素問内(経)を作りしたもうに由りて、(およ)病を受くるの根源、兪府皆な(脈)を切にして知る。故に秦越人(これ)に因りて設けて八十一の難の問答を(つく)り、精微を究竟(くきょう)して(医)師の道を(つく)す。世の(医)(おおむ)(しん)に熟して腓を察し、證を(つまび)らかにし、(薬)を治む。難(経)一書の(ごと)きは誠に大本領。(いやしく)も難(経)に由らずして出でるは其れも亦た庸醫(ようい)ならんか。

第二段
余、本草を註する者を(観)るに、今東陽の(しゅ)彦脩(げんしゅう)が著す所にして(すで)餘蘊(よおん)無きが(ごと)し。(しこう)して難(経)<を解す者は其の(いく)ばく家と云うを知る。諸精詣(せいけい)を求むるに、十に一、二も無し。許昌(きょしょう)滑君伯仁甫(かつはくじんほ)岐黃(ぎはく)の術を挾み、(学)は東垣の李先生に出だして(しん)(くわ)しくして(剤)(つまび)らかなる者なり。(あ)を愈し、(こ)(ただ)し、人を活かすこと(のこばり)多。余、足疾に坐し、人人治せども(い)えず。伯仁治法を善くすと言うもの有り。余、之を致す。其の議論を(聴)くに、皆な難(経)より(来)たる。(遙)かに世の(医)を言う者に異なり。(あ)に異ならんや。理義の微を究むる。衆人は(まこと)(し)らざるなり。因りて出して述ぶる所の難經本義二卷を示めす。前人未だ(発)せざる所の(旨)(発)し、首に諸(ず)(つら)ね、後に本義を(そ)す。(けだ)し其の儒者の(学)を積むこと二十(余)年。(およ)(医)の書、(参)考せざると云うこと無し。(しこう)して(おのれ)が意を各條問答の下に折衷(せっちゅう)す。於戯(ああ)、其の心を用うるも亦た仁なるかと。之を得る者は以て黃帝、岐伯の庭に(はし)りて崆峒(こうとう)(寿)域を問うべし。

第三段
(しか)りと(いえ)ども、(われ)(これ)を聞く、望みて其の病を知る者、之を(神)と謂う。聞きて知る者、之を聖と謂う。又問いて之を知る、之を工と謂う。(しん)に至りて(脈)(浅)深、呼吸の至(数)に至りて後に能く療治する者は巧の道を得たり。神聖工、(なん)ぞ見ること得んや。今求むる所の者は巧のみ。巧の中に(お)いて又言語文字を以て(つた)うべからざる者は、(へん)(かく)(ただ)し、緩が膏肓を視るが若し。難經に於いて何ぞ然りと(しか)らざると有らんや。(われ)其れ伯仁甫(はくじんほ)(つまび)らかに云う。

至正二十有一年 重光 赤奮若の嵗 臘月 既望
奉直大夫 温州路の總管 管内務農兼防禦事 天台の劉仁本叙す。



以上、劉仁本の序です。
ここでの内容は、

第一段
さて、神農がいろいろな薬を考えて、其の気味の寒温、辛酸甘苦、有毒無毒等のの品類、正しい製法、立法の君臣佐薬使の効用に至るまでを本草の道に求められてから、後世では薬で病を治療しようとする人は本草を中心として医療を施してきた。黄帝は『素問』・『霊枢』を作られて病を受けた根本や病の有る所の経穴に至るまで、総て人迎気口等の脈診によって分かるようになった。内経が医学の根本であるのは、秦越人が内経によって自ら作り設けた八十一難の問答によって医道を詳しく研究し、医者の道を示したからである。世の医者が脈を診て病がどこにあるかを感じ、病証を細かく判断して的確な薬をだそうとするならば、難経程便利なものはない。仮に『難経』を勉強せずに医者をしていたならば、その人はやぶ医者と同じではないだろうか。

第二段
私が本草の注釈をしている人をみていると、今は東陽に住んでいる朱彦脩(朱丹渓)が著した『本草衍義補遺』によって既に本草の奥義を極めらつくしていると言っていい。それに対し、『難経』を注釈する人はたくさんいたけれども、その奥義をとらえている者はほとんどない。許昌に住んでいる滑伯仁(滑寿)先生は、内経の術を常に行ない、学術面は東垣に住んでいた李杲(李東垣)の流儀を習ったので、脈診に詳しく、薬にも詳しい。治りにくい病気や慢性化した病気も治したので、救い生かしたいう話が数多くある。私も足の病気に罹り、様々な人に治療をしてもらったけれども一向に治らなかった。そんな時ある人から伯仁先生が様々な病気を治しているという話を聞いたので、私は一度伯仁先生に診てもらおうと思った。実際に会ってその治療の仕方を聞いていると、すべて『難経』からきていることが分かった。今の世の医者が言っていることとは遙かに違っている。どうして違っているのだろうか。それは医道の精神を究めているからであろう。他の医者は知らないのである。その究めた内容をこの度『難経本義』として発表した。昔の人が思いもよらなかった考え方を見つけ、最初には図をつけ、その後『難経』の奥義を注釈している。そもそも伯仁先生は儒学を二十余年学ばれて様々な医書を参考にしておられる。だから医家で意見の違うところは折衷案を出している。あぁ、そうした考えを用いるのも仁の心となるのだろうなぁ。この『難経本義』を読んだ人は医道の真理を得るのと同じことだ。

第三段
そうは言っても得難き術である。病人の顔を望み視てその人の病を知るのを「神」という。病人の声を聞いてその人の病を知るのを「聖」という。病人に質問してその人の病をするのを「工」という。脈診をしたり、呼吸の回数等から治療を施す医者は「巧」の道を得ている。今の医者は「神」「聖」「工」を行う人はおらず、ただ「巧」を行う人ばかりである。「巧」の道の中でも言葉や文字でも伝えることができないものに、扁鵲が虢の太子を治したり、医緩が膏肓に病があるのが分かったりするものがある。『難経』の奥義を学ぶと、このようなことを行なえるようになるのは間違いないだろう。私はこのような奥義を伯仁先生が身につけていると確信を得ている。

至正二十一年(1361年)辛丑の年 十二月十六日
奉直大夫、温州路の總管、管内務農、防禦事とを兼任する 天台の劉仁本が序を書く。

というような感じです。
劉仁本という人は、漢方に興味があったのか、湯液についていろいろと書かれているのが特徴です。

この序を一言ででまとてみると、
湯液ではその奥義を見つける人が多いのに比べ、『難経』はまだその奥義をみつけだしている人は少なく、見つけ出したのはただ滑伯仁のみ。
ということでしょうか。
ここでも滑伯仁をほめちぎっています。


気になる所は、湯液の話がたくさんあるのでそれがらみが多いのですが、省略します。
ただ、一点だけ。

胗に熟して
胗は脈診のことです。岡本一抱の注には人迎気口脈診を挙げています。
そもそも『素問』では「三部九候脈診」によって書かれ、『霊枢』の脈診は「人迎気口脈診」によって書かれています。現在の脈診は「六部定位脈診」によるものが多いですが、時代や人によって脈診の仕方が違うというもの念頭においておかなければいけませんね。


第三段の「神」「聖」「工」「巧」は『難経』の六十一難の内容にあたります。「神」は望診、「聖」は聞診、「工」は問診、「巧」は切診に相当します。いわゆる四診です。この四診をすべて駆使しないと、扁鵲や医緩のような神医になることはない、ということも書かれています。
修業、修業ということですね。

これで劉仁本の序は終わりです。次は最後の序。滑伯仁自身の自序についてみていきたいと思います。

『難経本義諺解』 滑伯仁の自序

今回は、『難経本義諺解』滑伯仁の自序です。4つある序の一番最後になります。

難經本義序
第一段
(経)本義は許昌の滑(寿)、難(経)の義に本づきて之が説を(つく)るなり。難(経)は相い(伝)えて渤海(ぼっかい)の秦越人の著す所と為す。(しか)れども史記に載せず。隋唐書(とうとうしょ)經籍(けいせき)藝文志(げいもんし)(すなわ)ち秦越人、黃帝八十一難經二卷の目有り。(あ)に其の時、門人弟子(ひそ)かに相い授け受けて太史公(たいしこう)偶々(たまたま)之を見るに(およ)ばざるや。(これ)を史記の正義及び諸家の説に考うるに、則ち越人の書為ること(しい)ず。

第二段
(けだ)し黃帝素問(霊)(枢)(旨)に本づきて、設けて問答を為す。以て疑義を(釈)す。其の間、(栄)衛の度數、尺寸、部位、陰陽、王相、(蔵)府、内外、(脈)法、病能と、夫の(経)絡流注、鍼刺、兪穴と該ね備えざると云うこと莫し。其の(辞)(つつまやか)にして其の義を博くし、前聖を(ひろ)くして後世を(ひろ)き、生民の為に(おもんぱか)る所以の者、至りて深切なり。

第三段
歴代以(来)、註家相い(ふ)みて無(すべて)(数)十。然れども、或いは之を繁に失し、或いは之を簡に失し、醇疵(じゅんし)殽混(こうこん)の是非攻(撃)す。且つ其の書、華佗(かだ)煨燼(かいじん)(余)りを(経)て、(欠)文、錯簡(さっかん)遺憾無きこと能わず。夫れ天下の事、其の故きに(したが)う時は則ち其の道立つ。其の源を(深)する時は則ち其の流れ長し。其の義に本づきて其の(旨)を得ざる者は、未だ之有らざるなり。上古(じょうこ)易書の(ごと)き本卜筮(ぼくぜい)の為に設く。(し)朱子(しゅし)象占(しょうせん)に推し(もと)づきて本義を作り為し、四聖の心以て明らかなり。難經本義(ひそ)かに諸此に取るなり。

第四段
是の故に之を(枢)素に考え、以て其の(みなもと)を探り、之を仲景(ちゅうけい)叔和(しゅくか)に逹し、以て其の(ちょ)(釈)す。凡そ諸説の善なる者は、(あま)ねく(か)りて博く之を致す。(欠)文、(断)簡は則ち委曲(いきょく)にして以て之を求む。(な)お、先儒經を(と)くの(変)例を以て疑いを(つた)う。於乎(ああ)、時に先後有り、理に古今無し。其の義を得れば、(ここ)に其の理を(う)。其の理を得る時は則ち作者の心、百世に(ほがら)かにして(ほか)ならず。(しか)りと(いえ)ども、(こ)の義や、(あ)えて自ら其の(すで)に至れりと謂うにはあらず。後の君子、其の(およ)ざるを見て、改めて之を正せば、亦た(む)べならずや。

至正 辛の丑 秋九月酉朔 自序



今回は滑伯仁の自序です。
ここでの内容は、

第一段
『難経本義』とは、私、許昌の滑寿が『難経』の真義に本づいて『難経』の注釈をつくったものである。『難経』は、昔から勃海の秦越人(扁鵲)が著したものだと伝わってきているが、司馬遷の『史記』には載っていない。『隋書』経籍志、『旧唐書』芸文志になってからようやく「秦越人、黄帝八十一難経 二巻」の目録がある。おそらく『史記』の編纂時に、越人の門人・弟子が『難経』を師から秘密裏に授かったので、司馬遷も『難経』を見ることがなかったからではなかろうか。『難経』は秦越人の作かどうかを『史記正義』や儒医家の説から考えてみると、やはり秦越人の作であることは疑いようもないだろう。

第二段
そもそも『難経』は、『素問』『霊枢』の趣旨に本づいて越人自ら問答の言葉を作り、内経の分かりにくいところや、決めどころにかけるものを解釈している。『難経』は全部で八十一篇あるが、その中には営衛、経脈の度数、寸尺三部臓腑の脈位、脈の陰陽、王脈、四時相應の脈、藏脈、腑脈、内証、外証の脈法、病能、十二経と奇経の流注、鍼の刺し方、兪穴というように、医道のやりかたを詳しく説明している。言葉は簡潔であって内容が深い。『難経』は岐伯の医道を推し広めて後世の学者を導き、人々の病患、夭死を救うために、この様に医道を思慮していてとても医道を究めている。

第三段
越人が『難経』を作ってから代々、『難経』の注釈をしてきた医家は数十人いた。その中には諸説をたくさん引いたり言葉を多くしたりして『難経』の本理を失う者もいれば、言葉や理義を簡略にしすぎて『難経』の本意を失う者もいた。注釈の善いものや悪いものが入り乱れている。そのため『難経』本来の理義が分からなくなり、経意を損なってしまっている。そのうえ、今の『難経』は華佗が燃やした焼け残りから出来ているのため欠文や錯簡が多い。このように考えると、『難経』の本来の意義が分かり分かり辛らくなっているので遺憾に思っている。天下一切のことは上古より続いてきたのため、医道の道を昔に従って行なえばこれからもその道は続く。その源を深くすればその道は長く続く。経書の理義を求めてその本源に推し本づいて尋ねていけば、その奥旨、本意を得ることができるだろう。上古の易書はもともとは卜筮をする為に作られた。朱子は象に本づいて『周易本義』を作った。それによって伏羲、文王(姫昌)、周公(姫旦)、孔子の四聖の心が明らかになった。『難経本義』の名前はこの『周易本義』から取らせてもらっている。

第四段
根源の義に推し本づかないとその奥義を得難いので、この『難経本義』の注解を作った。そもそも『素問』『霊枢』によって『難経』の源を探り求め、張仲景の『傷寒論』や王叔和の『脈経』といった様々な古典からも余すことなく医道を尋ね引いたので、元の源流を余すことなく求めて注釈している。それぞれの注説のなかでも、理義の合うものは隅々まで残さず求めたので、広く『難経』本来の意味を推しはかれただろう。昔の儒経を注釈するときは、類例にしたがって、『難経』の正文に或いは欠文、誤字、或いは衍文、断簡などあることが分かったならば、すぐさまその箇所を改めるためにその箇所を削除し、正しい言葉に変えるということをしない。本文には旧例を残して変えていない。欠文、誤字等の疑わしいところがあれば、注釈のなかでいちいち述べている。あぁ、時代に「先代」、「後代」の違いはあっても、道理には「今の道理」、「昔の道理」という区別はないなぁ。だから『難経』の本源の奥義を得れば、『難経本義』で『難経』の道理を得て、『難経』の本理を得れば作者の心意は百世の後にあっても広く明らかにされるだろう。『難経』の理義や旨意を会得できないわけがない。この『難経本義』の注釈にも誤るところはあるだろう。後世の高名な人よ、私の注釈の及ばないものをみつけても、その誤りを改めて正さないのは良くない。それは伯仁の意思を考えても実に良いことであるので、遠慮なく指摘してほしい。

至正 二十一年(1361年) 秋の九月一日 自序す。

というところでしょう。
滑伯仁自らの序ということもあって、どうしてこの『難経本義』を書いたかの理由も書かれています。
それについては内容をみてもらえればよいでしょう。

気になる所は、
四聖の心
四聖とは伏羲、文王(姫昌)、周公(姫旦)、孔子の4人のことです。すべて八卦を発展させた偉人とされます。
伝説では、伏羲が八卦を作り、文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼を作った。とあります。
つまり、『難経』は医道の本源が述べられているということになります。
これに関しては今までの序でも散々言われてきたことですね。

あと、第四段の最後。自分の註釈も間違えている可能性もあるから、間違っていたら正してほしいという姿勢です。医道の道を究めるには誤りは正し、正しいものは正しいと認識する事が第一ということでしょう。

これで自序は終わりです。
次は「難經彙考(なんぎょういこう)」です。少し長い文章になるので、いくつかに分割するかもしれません。

『難經本義諺解』 難經彙考その1 『難経』について

今回から難經彙考(なんぎょういこう)にはいります。
難經彙考はかなり長いので、書かれている内容ごとに分割していきます。
今回は『難経』の歴史や名前の由来などについての部分です。

難經彙考
史記の越人(伝)に、趙簡子(ちょうかんし)虢太子(かくたいし)(さい)桓侯(かんこう)の三疾の治を載せ、難(経)を著すの説無し。隋書(ずいしょ)經籍志(けいせきし)唐書(とうしょ)藝文志(げいもんし)に、(とも)秦越人(しんえつじん)黄帝八十一難經(こうていはちじゅういちなんぎょう)二卷の目有り。又た唐の諸王の侍讀(じどく)張守節(ちょうしせつ)が史記の正義を(な)し、扁鵲倉公傳(へんじゃくそうこうでん)(お)いて、則ち全く難經の文を引きて、以て其の義を(釈)す。(伝)(しり)えに全く四十二の難、第一の難、三十七の難との全文を載す。此れに由る時は則ち知んぬ、(いにしえ)より(伝)えて以て秦越人の作る所の者と為すこと(し)いならざるなり。其の問を設くるの(辞;ことば)(つまび)らかにするに、經に言くと(称;しょう)する者は素問、靈樞(霊枢)二經の文に(お)いて出でる。靈樞(霊枢)に在る者(もっと)も多し。亦た二經に(あら)わるる所無き者有り。(あ)に、越人別に古經を(ひろ)い、或いは自ら設けて問荅を為すこと有るか。邵菴(しょうあん)(ぐ)先生(かつ)て曰く、史記に越人難經を著すことを載せず。(しか)れども隋唐書(ずいとうしょ)經籍(けいせき)藝文志(げいもんし)に定て越人難經の目を著す。史記の正義を作る者は直ちに難經の(数)章を載す。愚(おも)えらく、古人、經に因て難を設け、或いは門人弟子と答問して偶々(たまたま)此の十一章を得るのみ。(いま)だ必ず經の(まさ)に難すべき者の此の八十一(じょう)(とど)めず。難は經に由て(発)す。(ひと)り言を立てず。(か)つ古人は名を書に(たく)することを求めず。故に之の(つた)わる者、(ただ)專門名家のみ。其の後、流傳(るでん)(や)(広)く、官府(かんぷ)得て以て録して其の目を著わし、註家得て以て引きて文を成すのみ。

圭齊(けいさい)歐陽公(おうようこう)が曰く、(みゃく)を手の寸口に(せつ)にすること、其の法、秦越人より始むる。(けだ)(医)者の祖為り。難經は先秦の古文、漢より以(来)、客の難に(たっ)せし等の作。皆な其の後に出づ。又た文字相い質難(しつなん)の祖なり。楊玄操(ようげんそう)が序に謂く、黄帝内經二(ちつ)有り。其の義、幽頥(ゆうさく)にして(ほと)んど究め覧難し。越人、乃ち二部經の内の精要、(すべ)て八十一章を採摘し、其の道を伸演して八十一難經と名づく。其の理趣(りしゅ)深逺(しんえん)にして(そつ)(さと)し易きに非ざるを以ての故なり。

紀天錫(きてんしゃく)が云く、秦越人、黄帝素問疑難の義、八十一篇を(も)て重べて之を明かにす。故に八十一難經と曰う。

宋の治平の間、京兆の黎秦辰(りたいしん)虞庶(ぐしょ)が難經の注に序して云く、世に傳う黄帝八十一難經、(これ)を難と謂うは人の五藏六府、内に隠るるを以て邪の為に(お)す所測り知るべからず。唯、脉理(みゃくり)を以て其の彷彿(ほうふつ)を究むるに非ざることを得んや。脉は重さ十二(しゅく)と云う者有り。又た車葢(しゃがい)を按すが如くして雞羽(けいう)(な)づるが若しと云う者有るが若し。復た、内外の(証)(考)えて以て之を(参)校す。其れ難からずや。按ずるに、(おう)(ぐ)が説は則ち難の字、(まさ)去聲(きょせい)と為すべし。(余)りは皆な奴丹の功(ぬたんのせつ)なり。

丁徳用(ていとくよう)が補註に題して云く、難經が歴代之を一人に(伝え;つた)う。魏の華佗(かだ)に至いて、乃ち其の文を獄下に(や)く。晋宋の間に於いて、仲景(ちゅうけい)叔和(しゅくか)の書に有ると雖ども、然れども各々其の文を(み)るに、其の説を濫觴(らんしょう)す。呉の太醫令(たいいれい)呂廣(りょこう)に及びて此の經を重ねて編む。而れども尚お文義差迭(さてつ)す。按ずるに、此れ則ち難經は燼餘(じんよ)の文為り。其の編次、復た重ねて呂廣が之の手を經て、(まこと)缺失(けっしつ)無きこと能わず。



まずはここまでです。
ここでの内容は、

『史記』扁鵲倉公伝には、扁鵲が趙簡子、虢の太子、斉の桓侯を治療した話を詳しく載せているが、『難経』を記したという話は載せていない。それから後の『隋書』経籍志、『唐書』芸文志になってようやく「秦越人、黄帝八十一難経 二巻」という目録がある。また、唐の侍讀である張守節が著した『史記正義』には、扁鵲倉公伝の注において『難経』の本文を引いて『史記』の扁鵲の伝の義理を注釈している。張守節は扁鵲伝の後ろに『難経』四十二難、一難、三十七難の全文を載せているのだ。このことを考えると、昔から脈々と伝わってきた『難経』は、秦越人の作であることは疑いようもないだろう。『難経』の問答の言葉を考えて見ると、「経に言く」とするものは、『素問』『霊枢』から出ている。なかでも『霊枢』にようるものが最も多く、今の『素問』『霊枢』にはない部分もみられる。越人は『素問』『霊枢』以外の古経から引いてきたのだろうか、それとも自ら問答の言葉を作ったのだろうか。邵菴に住まわれている虞集(字は伯生)先生がかつて言われたことには、「『史記』には越人が『難経』を著したこと載せていない。しかし、後の『随書』経籍志、『唐書』芸文志には「越人難経」の目録を載せて定めている。『史記正義』を著した張守節は、自ら著した書に『難経』の数章を載せている。これに関して虞はこう思う、「伯仁は内経によって難義の問いを設けるか、或いは越人自ら難問をたて、それを門人弟子と互いに問い、答えているうちに、たまたまこの八十一篇のみを得た。それは内経の中の問難すべき所がこの八十一に止まって、これより他に問難すべきことが無いということではない。越人は自ら問難の言葉を作らず、難は全て内経の中から作った。そして昔の人は書を著してもそこに自分の名前を書くことはしなかった。だから越人が『難経』を著したことが世間に広まらなかったのだ。そのため、『難経』を伝えた人も多くなく、ただ医の専門家や名のある医者にしか伝わらなかった。その後徐々に世に広まるようになり、ついには随、唐の官府にも『難経』があることが知られるようになった。こうして目録が作られたのである。『史記』の注釈家である張守節も『難経』を見る機会を得て、『難経』の言葉を引いて『史記』の越人伝の注文を作るにいたったのだ。」と。

圭齊に住む歐陽玄が言われるには、「そもそも、脈を診る時に手の三部寸口において切にする方法は秦越人より始まったのである。だから越人は後世の脈を診て病を治す医者の元祖なのである。」『難経』は先秦の焚書を免れた古文である。東漢の張仲景より以来、客の難問に答える等の作為は全て『難経』以後に出来たものである。そのため、『難経』は文字によって相い答えて問難するものの元祖である。楊玄操が『難經注釈』を作った時に、その序に言う。「『黄帝内経』には『素問』と『霊枢』の二つある。『内経』の義理が少しで分かり難く、後人がその理を究めてその意味を覧難い。越人は『素問』『霊枢』の内の義理の精微である大切なことを集めて内経の道を『難経』の問答に述べ、其の八十一章の問答の書を八十一難経と名付けたのである。『難経』に問答する所の経の理義、意趣はいたって深く、いたって遠いので、すぐに理解することはできないものを選んで問答している。故に『難経』と名付けているのだ。」と。

紀天錫が言われるには、「秦越人は『素問』『霊枢』の中より其の理の深く、疑わしく、理解しにくい部分を挙げて問答すること八十一篇ある。これは全て『内経』の言葉を重ねて『難経』に挙げて其の理を明らかにしているから、『難経』は『内経』の疑難の義を八十一篇に述べているものである。だから『八十一難経』と名付けているのである。」と。

宋の治平の間、京兆の黎秦辰が虞庶の『難經注』に載せて言うには、「世に伝わっている『黄帝八十一難経』の難の字の意味は、人の五藏六府は皮肉の内に隠れており、もし邪によって藏府の侵され、傷られることがあったとしても、外からは測り知ることはできず、ただ気功人迎などの診脈の理でないと、その疑わしく、見分け難いものを定め究めることができない、というところにある。人の藏府が病を受ければ、わずかの脈理によってその定め難きところを究めることができる。だが、診脈の法におていも、また十二菽の重さであると言ったり、或いは車蓋を押したり、または鶏の羽をなでるような感じと表現したりして、簡単に診ることは難しい。だが、脈によって内証、外証を考えて分け、かれこれ脈理を参考にすれば、知り難く、得難きことではなくなる。今、『難経』の問答は全て脈症の知り難く、得難き道を述べている。だから『難経』と名付けているのだ。」と。
私、滑伯仁が思うに、歐陽玄や虞庶の説は難の字を「去声」にして解説している。他は全て「奴丹の功」である。

丁徳用が自身の『難経補註』の序に言われるには、「『難経』の書は上古より代々一人ずつに伝授して、深く秘密にしてあったので広く世に伝わることはなかった。それが魏の華佗のときに『難経』の書文を獄下に焼かれた。晋宋の代の間に張仲景の『傷寒論』、王叔和の『脈經』などの書があったといっても、それぞれの文章を見てみると全て『難経』の論説でほとんどどがしめられている。また、華佗が焼き余りの『難経』を呉の太醫令である呂廣が編み正して全書としたが、『難経』の文字、義理の次第が上古の越人のときとは違うところがある。私、丁徳用が考えるに、後世に残っている『難経』は、華佗が焼き余りの文書で乱雑になっていたのを後に呂廣が編み整えて全書とした。今の『難経』は一度焼け損なって呂廣の手によって編みなおされており、或いは文字が欠けていたり、篇章も無くなっていので残念である。」と。


長い文章でしたがこんな感じでしょう。ここでは『難経』の名前の由来と伝承に関する事柄について、いろんな医家の説を紹介しています。今までの序と似たようなこととが書かれてるので特に問題ないと思います。

次も「難經彙考」の続きになります。

『難經本義諺解』 難經彙考その2 寸口部について

「難經彙考」の続きです。ここでは寸口部の脈診について書かれています。

謝氏が謂く、難經(経)王宗正が註義圖觧(図解)には、大(概)(診)脉の法を以て、心肺は倶に浮、肝腎は倶に沈、脾は中州に在ると云うを正と為すのみ。(他)の註家引く所の、寸関尺にして(両)手の部位を分ち、及び五藏六府の(脈)、並びに時に分ち見わるる尺寸に至ては、皆な以て王氏が脉經(脈経)の非と為す。(こと)に知らず。脉の兩手を分つ所以の者は、素問の脉要精微論に出で、其の文甚だ明らかなり。越人、復た之を十の難の中に推明して言く、一脉(変)じて十と為ると。五藏六府を以て相い配して言う。叔和(しゅくか)に始むるに非ず。且つ、三部の説二つ有り。一は則ち四の難に所謂心肺は倶に浮、肝腎は倶に沈、脾は中州と云うと、五の難の菽法、(軽)重とを同じくして三部の中に又た各々自ら上中下を分ちて云う。一は則ち脉要精微論の五藏の部位。即ち二の難の寸(関)尺を分ち、十の難の一脉(変)じて十と為る者なり。(も)(た)だ心肺は倶に浮、肝腎は倶に沈、脾は中州と為すの一法を以て之を言う時は、則ち亦た必ずしも寸(関)尺を分かたず。而れども、十の難に所謂一脉十(変)は何に(従;よっ)て之を推さん。



ここでの内容は、
謝縉孫(字は堅白)が言うには、「王宗正の『難經註義圖解』には、”診脈の法は心肺は俱に浮、腎肝は俱に沈、脾は中州に在るのをただ正脈としているのだ。他の『難経』の註家が引く寸関尺の三部によって、それぞれの藏府の脈部を分かち定め、五藏六府の気脈が一々時々に其の主さどる所の尺寸三部の位に分かれ現ると言う理は、古の診法ではない。これは全て王叔和の『脈経』より言い始めたことなので、非理であるとする。”と書かれている。王宗正が両手の六部に各々藏府を分配するのを誤りとしているが、藏府の脈を両手六部に分配することは『素問』の脈要精微論に出ている。しかもその経文も明白であるので、三部に藏府の脈を分ける説は誤りではないといえる。脈要精微論の両手へ藏府の脈を分配する方法を秦越人もくみとり、十難の中に脈要精微論の意を推し明らめて、”一脈変じて十と為る”と言っており、諸藏諸府を以て両手の六部へ分配している上で”一脈十変”と言っているのだ。両手の六部へ各藏府の脈に分けることは、『素問』『難経』より既に知られている方法であって、王叔和の『脈經』が言い始めたことではない。しかも、誤まった方法でもない。故に叔和が言い始めたものであるから非法であると言うのは、反って王宗正の誤りなのである。その上、寸関尺の三部で藏府の脈を候う方法は二つあるのある。一法は、四難の心肺は俱に浮、腎肝は俱に沈、脾は中州であるというのと、五難の菽法は同じであって、三部の中にまた各々上中下を分けているもの。もう一法は、素問の脈要精微論のように、藏府の脈の部位を分けて左寸は心、右寸は肺として候うもの。これは二難の寸関尺を分け、十難の毎部の藏位を定めて一脈十変と為るものである。王宗正は三部を通して浮かべては心肺、沈めて腎肝、浮沈の中には脾を候う方法に止まる。もしこの一法に止まって脈法を言うならば、何のために寸関尺を分けるのであろうか。また、必ずしも寸関尺を分けることに及ばない。越人が寸関尺を分けているのは、毎部の藏府の各位を分配させるためである。その上、毎部の藏府の各位を定めないならば、十難に言う所の一脈十変は何によってこれを推し求めるのだろうか。毎部の藏府の各意を定める上においてこそ、一脈十変も定められるべきである。王宗正の四難の浮中沈の一法にのみ止まって、毎部の藏府の各位を分かつことを誤りとするものは間違っていることを知るべきである。

ここでは王宗正の説を引き合いにして、四難、五難、十難の脈の診方を説明しています。

参考として、岡本一抱子の四難と五難の脈診の意義について述べているので、それをそのまま抜粋してみます。
四難の意は、左寸は心、右寸は肺と分かたず、寸関尺の三部何れの部にても、医者の手の浮かめては心肺は候い、医者の手を按し沈めては腎肝を候い、心の脈は六菽の重さに候うと云うと同じ。此の菽の軽重の法も、左寸は心、右寸は肺と分かつことなく、五難と同じく何れの部にても三菽は肺、六菽は心と候うなり。故に四難に所謂心肺は俱に浮云々と第五難の菽法と同じと云う。四難、五難は寸関尺三部の中、何れの部にても又、各々自ら浮かめて上部、沈めて下部、浮沈の間にして中部と分かちて云う者となり。浮中沈の三法を以て三部の藏府の位を分かつ。此れ三部の一説なり。

こんなところです。次は『難経』の注釈本についての説明です。

『難經本義諺解』 難經彙考その3 注家について

「難經彙考」の続きです。
今回は『難経』の注釈書についてです。

蘄水(きすい)龎安常(ほうあんじょう)、難經の解、數萬(数万)言有り、と。惜しい(かな)(伝)うること無し。

諸家經解
馮氏(ひょう)、丁氏は(さく)に傷らる。虞氏(ぐ)は巧に傷らる。李氏、周氏は任に傷らる。王呂は(くら)うして(あやま)る。楊氏、紀氏は大醇にして小疵。唯、近世謝氏が説、殊に理致、原委有り。及び袁氏は古益の人、難經本(旨)を著す。佳き(処)甚だ多し。然れども其の因襲の(処)、未だ前人の非を踵むことを免れず。且つ之を(しげ)きに失するのみ。

潔古(けっこ)氏が藥註(薬注)、疑うらくは其れ草稿(そうこう)にして姑らく章指義例を立て、未だ成書に及ばざるか。今見る所の者、徃々に言論、經に於いて相い渉らず。且つ文理無し。潔古が平日の著述、極めて醇正。此れ絶えて相い似ず。何づく自り遂に板行して反って先生の累いと為すを知らず。豈に事を好む者は之を為して托して先生の名を為すや。

之を要するに、後來の東垣、海藏、羅謙甫(らけんほ)(輩)、皆な見るに及ばざるが若し。見るるは必ず當に與に其の説を足し成すべし。然れども、亦た之を回護して輕易に流(伝)せしめざるなり。



ここでの内容は、
蘄水に住んでいる龎安常が著した『難經註解』という数万言の書があると伝わっているが、惜しいかな、亡失して後世には伝わっていない。

諸医家の『難経』を注釈する所を考えるに、
馮道玄、丁徳用はその理を穿鑿(せんさく)しすぎて反って本理を失っている。
虞庶はあまりに文章を飾り、言葉を巧みにしているので、反って実理を失っている。
李子壄、周仲立は妄りに筆削を加えて自分の考えを押してしまったのため、その本理を傷り失ってしまった。
王呂は根底からその理に暗らく、経理を誤っている。
楊玄操、紀天錫はその理にあつい。少し問題点はあるがそんなに多くない。
ただ、近世の謝堅白の説は他の注とはくらべものにならないぐらい理義のおもむきがあるのみである。
また、古益に住んでいる袁坤厚は『難経本旨』を著しているが、良いところが非常に多い。しかし、あまりに言葉を多くしすぎ、または先輩の諸説を頻繁に引用し過ぎて本理を失ってしまっている。

張潔古の『薬注難経』は、おそらく草稿である。このように作っていると志す所の一章一章の指意、其の義理の類例を立てるばかりであって、成就の全書となっていないものではないだろうか。今、世に伝わっている『薬注難経』を見てみると、『内経』『難経』の本理にあわないものが多い。その上、書かれている文章も深理あるものではない。張潔古の他の著述をみると理義が正しいものばかりであるが、この『薬注難経』には理義がない。絶えて久しいためか、張潔古が平常の著述とはとても似つかないものになってしまった。この『薬注難経』はどこから出てきたものか知られぬまま出版されてしまった。このような非説な書は反って潔古先生の迷惑であり、先生の名を汚がしてしまっている。この『薬注難経』は潔古先生の真作ではない。おそらく誰かが潔古先生の名前を託し、これこそ潔古先生の作であると偽ったものであろう。

『薬注難経』の義を詳細にみてみると、後学の李東垣、王海藏、羅謙甫といった人たちが潔古先生の医流の末にあたるが、これらの人は皆『薬注難経』を見ていないように思える。もしこれらの人たちが『薬注難経』を見ていたならば、必ず論説不足のところを補ないあい、成就の全書としていたに違いない。もしくは、この不足の論説を足せずにあったならば、このような非説の書は潔古先生の名前を汚すことになるため、内々に隠して外に広めず、軽々しく世間へ流し伝えることはしなかったはずである。

こんな感じです。
『難経本義』の作者である滑伯仁は、いろいろな『難経』の注釈書について痛烈に批判しています。
特に張潔古の『薬注難経』はこれでもか、というほどに…。
滑伯仁はこの中でも楊玄操、紀天錫、謝堅白、袁坤厚の注釈はそこそこいい注釈本であると認めています。
僕はこの中では楊玄操の注釈本しかみたことはありませんが…。

ちなみにそれぞれの注釈本の名前は、「本義引用諸家姓名」によると、
楊玄操は『難経注釈』。この本自体は既に亡失してますが、現在の『難経集注』に収められています。
紀天錫は『集注難経』。
謝堅白は『難経説』。
袁坤厚は『難経本旨』。
であるらしいです。
機会があれば読んでみたいですね。

今回はここまでにします。
次は『難経』の内容についての部分です。

『難經本義諺解』 難經彙考その4 『難経』の理義について

難經彙考の続きです。
今回は 『難経』の理義についてです。

(経)八十一篇、(ことば)甚だ簡なるが若し。然れども、榮衛、度數、尺寸、位置、陰陽、王相、藏府、内外、脉法、病能、夫の(経)絡流注、鍼刺、兪穴と(か)(つく)さざると云うこと莫し。昔人、十三類を以て之を(す)ぶる者有り。於乎(ああ)、此の(経)の義、大として(か)ねざると云うこと無し、細として(挙)げざると云うこと無し。十三類、果して以て之を(つく)すに足らんや。八十一篇、果して十三類に出でざらんや。(学)者、之を篇章の間に求むる時は、則ち其の義を自ら見われん。

此の書、固に類例有り。(ただ)(まさ)大學(だいがく)、朱子、章を分かつが如くにして、以て記者の意を見る時は則ち可なるべし。當に(おの)れが之を類を立るを以て、(経)の篇章を(の)ぶべからざるなり。今(み)るに、一の難より二十一の難に至りては、皆な(脈)を言う。二十二の難より二十九の難に至りては、(経)絡の流注、始終、長短の度(数)竒經(奇経)の行り、及び病の吉凶を論ず。其の間に(みゃく)と云うもの者有れども尺寸の(脉)を謂うに非ず。乃ち經隧(けいずい)の脉なり。三十の難より四十三の難に至りては、榮衛、三焦、藏府、腸胃の(つまび)らかを言う。四十四、五の難には、七衝門は乃ち人身(と)りて生ずるの用、八(会)は熱病、内に在るの(気)穴を(た)ることを言う。四十六、七の難には、老幼、寐寤(びご)を言いて、以て(気)血の盛衰を明す。人の面にて寒に耐うることを言いて、以て陰陽の走(会)を見す。四十八の難より六十一の難に至りては、診候、病能、藏府、積聚、泄利、傷寒、雜病の別を言いて、(しこう)して之に(継)ぐに、望、聞、問、切を以て(医)の能事を(お)わんぬ。六十二の難より八十一の難に至りては、藏府の榮兪、用針、補瀉の法を言う。又た全(躰)(学)、無きべからざる所の者、此の記者の類を以て相い(従)いて、始終の意備われり。



ここでの内容は、
『難経』八十一篇は言葉が非常に簡略であるといっても、一難では営衛の義、二十三難では経脈長短の度数の義、二難では尺寸の義、十八難では三部の三陰三陽の位を立て置くこと、四難では脈の陰陽、七難では四時の王脈、十五難では四時相応の脈、九難では藏府の病を分ける脈、十六難では五藏の病症を得て、その内症、外症を候うこと、一難から二十一難までは脈法、四十九難では病態、二十六、七難では経絡の流注、六十九難より以下の諸篇では鍼刺、六十二難より以下の諸篇では兪穴というように、医家の要道はことごとく備わっていて足りないところはない。『難経』は医の要道は大小を残さず書きつくされているので、其の部類は非常に多い。そこで楊玄操は十三に分類した。この『難経』に述べられている医道の理義、大義はかね備えていないことはなく、細義として挙げ記していないことはなく、巨細を残さずに書きつくしているので、楊玄操のように十三類に分類することは、はたして『難経』の理義の類を表せているのだろうか。『難経』の理義を考え求める場合は、十三類などに分けずに、ただ毎篇毎章の間に義類を求め考えれば、おのずと『難経』の真実の義例が見えてくるものなのだ。

とは言うものの理義の類例がないわけではない。類例を求めるならば、『大学』や『朱子』を参考にすると良い。なぜなら、『大学』、『朱子』の章は、本文を損なわない、昔から存在している文章の上にあり、右は何の章とそれぞれ分けているからである。『難経』もまた昔から存在している正文のまま篇の間に類例を求めるならば、自然と作者の本意を得ることができるだろう。妄りに自分の憶測によって類例を立て分け、『難経』八十一篇の諸章をまとめてはいけない。
今、『難経』の越人による類例の意味をみると、
一難より二十一難までは、諸脈法の種類を言う。
二十二難から二十九難までは、経絡流注の血気がどこから流れ始まりどこに注ぎ終わるかの義、手足の諸経がそれぞれ何尺何寸あるのかという長短の尺度寸数、奇経八脈が流行するところ、病の生死逆順を言う。
この二十二難から二十九難まので間に「脈」と言っているところがあるが、全て尺寸の動脈ではなく、経脈の「脈」を言っている言葉である。
三十難から四十三の難までは、榮氣と営気、三焦、藏府、腸胃の詳細を言う。
四十四難と四十五難では、七衝門と八会穴を言う。
四十六難、四十七難では、気血の盛衰と陰陽の走り集うところを言う。
四十八男から六十一難までは、三虚三実の診候、諸病形の診候、藏府の病の診候、五積六聚の診候、五泄の診候、傷寒の診候、雑病の診候の別を言う。
これらの診候の間に、望聞問切がある。
六十二難から八十一難までは、藏府の要穴、鍼を用いて子母、迎隨、深浅などの諸補寫の法式を言う。
また、六十一難までに医家の能事を書き尽くしているといっても、六十二難より以下に用鍼の道を述べるときや、医道の全体の道を学んで行わないといけない人は、六十二難より以下の用鍼、補寫の道も学ばないといけないものである。
以上の類例は『難経』を記した越人の本意の類例である。此の記者の類例に従がって見る時は、『難経』八十一篇終始の本意を残さず、ことごとく備えつくしたものである。

こんな感じです。
まず滑伯仁は楊玄操の十三分類について異議を唱え、越人の主旨から理義を分けて説明しています。
こうしてみると、やはり『難経』は様々な鍼のやり方について書かれていることが分かります。

次は、五蔵についてです。

『難經本義諺解』 難經彙考その5 五蔵について

難經彙考の続きです。
今回は、五蔵についてです。

四十一の難に云う、肝に(両)葉有り、と。四十二の難に云う、肝は左三葉、右四葉、凡て七葉、と。(両)葉と言う者は其の大を(挙)ぐ。七葉と言うは其の(つまび)らかを(つく)す。左三つ、右四つも亦た陰陽の義を相す。肝は木に屬す。木は少陽と為す。故に其の(かず)七。肺は金に屬す。金は少陰と為す。故に六葉、(両)耳。其の(数)八。心の色赤くして中ち(むな)しきは離に象るなり。脾の形は馬蹄(ばてい)に象り、中に(きょ)すれば土の義なり。腎に(両)枚有り。習坎(しつかん)の謂いなり。此れ五藏、陰陽に配合す。皆な天地、自然の理、人の能く為す所の者に非ず。馬の(胆)無く、免の脾無きが如し。物(まこと)に其の全きことを得ず。周子が云う、木は陽の(ち)、金は陰の(ち)とは是なり。



ここでの内容は、
四十一の難では肝は二葉あると言い、四十二難では肝は左へ垂れ、右へ三葉垂れて全部で七葉あると言っている。今このことを考えてみると、四十一難に二葉と言うのは左右にそれぞれ分かれている所を挙げて言っており、四十二難に七葉と言っているのは、左右へ分かれているのを詳細に見た数を言っているのだ。左は三葉で右は四葉である。左は陽であり、陽の数は奇数である。つまり三は奇数であり、陽数である。だから左に三葉あるのである。右は陰であり、陰の数は偶数である。つまり四は偶数であり、陰数である。だから右に四葉あるのである。これは左右陰陽の義を言っているのだ。肝は東方の木藏である。易では木を少陽としている。少陽の数は七である。だから肝葉の数もまた左右全て七葉となるのだ。
肺は西方の金である。易に金は少陰としている。少陰の数は八である。だから六葉と二葉であって、肺葉の数は全て八葉となるのだ。
心は南方の離火である。火の色は赤い。離は南方火の卦である。その爻は☲である。このように中は空虚になっている。だから心藏は赤色であって、赤蓮花がまだ開かないように中が空虚である。これは南方の火色、離卦の中の虚しき象りからきているのだ。
馬蹄は長く、下が四角で上が少し円のある形である。脾藏の形もまた長く、下が四角であって胃に重なり、上が少し円のある馬蹄のようである。土は四角だが上は天に応じて少し円になっており、天の中央にある。脾もまた心肺の下、肝腎の上にあって中央にある。これは全て脾の属する土の義に応じている。
腎藏の形は小豆のようで左右に二つあり、背骨の一四椎についている。このように腎藏が二つあるのは北方の水であり、位は二物を配する習坎からきている。
これらは全て五藏を陰陽、五行に配当した象りである。これは全て天地自然の道理である。人がつくりだしたものではない。自然とこのように生まれてきたのだ。しかし馬に胆が無く、兎に脾が無い。万物は全て五行陰陽に影響されているのではない。人は万物の中心であるからこそ、五藏、五行、陰陽を備えているものなのだ。周茂叔が言われるには、「木は陽の幼少、すなわち少陽であり、金は陰の幼少、すなわち少陰である。」と。

こんな感じです。
五藏の概要がうまくまとめられています。
ここでは五藏を説明するときに、『易経』からの数字の概念がちりばめられています。

易では、六が老陰(太陰)、七が少陽、八が少陰、九が老陽(太陽)と規定されています。
『五行大義』巻第一 第三論数 第一起大衍論易動静数にも、
七八を静と為し、九六を動と為す。
陽動きて進み、七を変じて九に之く。気の息するを象るなり。
(略)
陰動きて退き、八を変じて六に之く。気の消するを象るなり。

とあります。
七八の静と為すというのは、ここでは動きの静かなもの。つまり周氏が言う”穉”ということでしょう。
これより少陰や少陽の意味がでてきます。
九六の動と為すというのは、ここでは動きの激しい物。つまり極っているということでしょう。
これより太陽や太陰の意味がでてきます。
また、陽数は奇数、陰数は偶数を加味してこれを考えると、
少陽の七から老陽の九になる”消長平衡”を表し、まさに”七を変じて九に之(ゆ)く”ことになります。
少陰の八から老陽の六になる”消長平衡”を表し、まさに”八を変じて六に之(ゆ)く”ことになります。
これらから少陽の数が七となって肝も七葉となり、少陰の数が八となって八葉であると言っているのです。

心の”虚しきは離に象るなり。”とは、これも八卦の概念からきています。
離は火を象る八卦であり、☲と表されます。
離卦の☲は陽と陽にはさまれた陰に対して虚(うつ)ろと言っているのです。

脾の方形(四角)と円については、方が陰であり、円が陽となっています。
基本的に方形だけれども先は少し円になっているということは、脾は陰性のものであるけれども陽性も含んでいるということを表しているのだと思います。

腎の”習坎”とは、『易経』本文にある言葉です。
坎は水を象る八卦であり、☵と表されます。
『周易』では、
(坎下坎上)習坎は孚(まこと)有り。維(こ)れ心亨(とお)る。行けば尙(たっと)ばるること有り。
とあります。

また、最後のほうにある、「馬に胆が無く、兎に脾が無い」というのは初耳でした。動物については良く分かりませんが、実際にそうなっているのかもしれません。もしくはあったとしても、東洋的な概念における脾藏が無いというところでしょうか。「馬に胆が無く、兎に脾が無い」について、岡本一抱子が詳細に注釈しているので、参考としてその全文を引用してみます。

一説に、馬は金物。故に金は木を剋して胆無し。兎は東方の木物。故に木は土を剋して脾無し、と。愚按ずるに、馬は本南方の火畜たり。然れども『内経』『金匱要略』には金畜とする。また、五常政大論には火畜として一ならず。時珍曰く、馬の畜に在らば火に属し、辰に在らば午に属す。或る人の云う、卦に在るを乾に属し、金に属す、と。此れも亦た或いは火と為し、金と為して一ならざるなり。然れども馬の氣性を以て察する時は火畜たりとすべし。因って或る人の曰く、馬は陽畜、陽極の性たり。胆は發生、勇猛の藏たり。馬に膽あるときは、其の陽性、勇猛に甚だしくして獨り陽の如し。故に自然と胆無くして至陽、至猛を平かにす。兎は隂畜、隂極の性たり。故に宋奭が曰く、兎は明月之精、と。脾は至陰の藏たり。兎は脾あるときは其の隂、性に偏なることなく甚だしくして獨り隂の如し。是を以て自然と脾なくして偏隂を平かにす、と。この説、或いは通ず。一抱子案ずるに、五十難の五邪の本義に曰く、五行の道、我を生ずる者は休。その氣虚す、と。馬は火畜、火に盛んなる者なり。己が火氣に盛んばる時は生ずる所の母氣休虚す。胆は木にして火の生ずるの母なり。是を以て馬に胆なし。兎は金とす。宋奭が曰く、兎は明月の精。白毛有るは金の氣を得て葉に入れて尤も効あり。凡そ兎は秋深くる時に至て食す可し。金氣全うす。時珍が曰く、兎は冬月に至て木皮を噛む。已に金氣を得て氣内に實す。故に味い美なり。春に至て中麦を食して金氣衰ろう。故に美ならざるなり、と。兎肉の辛も亦た金の味わいなり。然る時は則ち兎は金獸とす。己が金氣に盛んなる時は則ち生ずる所の母氣、休虚す。脾は土にして金の生ずる母なり。是を以て兎に脾なき者か。管見此の如し。未だ是非を知らず。

ここはこんな感じです。今回は易の概念が多かったので補足を多く入れてみました。

次は『難経』を学ぶ意義についてです。

『難經本義諺解』難經彙考その6 『難経』を学ぶ意義について

難經彙考の続きです。
今回は、『難経』を学ぶ意義についてです。

東坡先生、楞伽經(りょうがきょう)(はつ)に云う、(医)の難(経)有るが如し、句句皆な理、字々皆な法。後世の逹者、神にして之を明らかにせば、(はん)(たま)を走らするが如く、(たま)(はん)に走るが如く、可ならざると云う者無し。若し新意を出して奮學(旧学)を棄てるを以て用無しと為せば、愚にして知るべきに非らざる時は、則ち(きならく)のみ。(たと)えば俚俗(りぞく)(医)師、(経)論に由らずして直ちに(薬)方を授かり、之を以て病を療するが如し。或いは(あた)らざるには非ず。病に遇うて(たやす)(応)じ、(はる)かに死生を(断)わるに、則ち(経)を知り、古を(学)ぶ者と日を同じくして語るべからず。世人(た)だ其の一至の功、或いは古人より(と)きこと有るを見て、因りて謂う、難(経)(学)ばずして可なり、と。豈に誤らずや。



ここでの内容は、
東坡先生が仏書の「楞伽経」の跋に言われることには、「仏書に楞伽経があるのは、医道に『難経』があるのと同じである。これらは一句一句の全てに深理があり、一字一字は全て法式となるのに充分である。これから学ぶ者たちは、「楞伽経」や『難経』によって考え明らかにしていけば良い。これらの書を見る人は理の意味が分からないということはなく、これらの書を見ることによって、理の意味が分からなくなることはないのだ。見る人が神明であるならば、理がことごとくあらわれて、良くない理があるということがなくなるのだ。もしも自分の胸に秘めた新しい理論を出したとき、そこに昔から伝わってきている「楞伽経」等の古い学問を棄ててしまい、古書であるから現在に用いても意味が無いとしたとする。それは愚かなことであって知が無い人である。愚かであって知が無い人でないというならば、それはただ狂人という人ということになる。「楞伽経」等の古い学問を棄て、新説を世に出す人というのは、例えば卑しきやぶ医者や愚俗の医師が『内経』・『難経』等の古経の論説に学ばず、初めからすぐに薬方だけを習って、人の病を治す人のことをいうのである。『内経』・『難経』等の古論を学ばないで治療することは不可能なのであって、これらを棄てて直ちに薬方を授かり、治療にあたったとしても効果を出すことはできないのだ。経論を学ばずに直ぐに薬方を授かって治療する医者であっても、ある時は効果が出ないということはなく、ある時はまぐれで病を治すこともあったりもする。しかし、病を診たときにその治療が素早く効果がでせるか、あるいは死生を決するような病なのかを判断することにおいては、『素問』『難経』等の経説を学び知って昔の道理を学び行う人と『内経』・『難経』等の古論を学ばない人とを同列に語ってはいけない。古経を学ぶ人は診断を迅速に行って死生を決断することができる。昔を棄てて直ちに薬方を授かる人の治療はすべて偶然な幸運であり、効果が直ぐに出るということがなく、死生を判断することもできない。だから昔を学ぶ人とは雲泥の差があり、同列に語ることはできないのだ。昔を棄てる人は非常に浅はかなのである。だが世の人は、ただ古経によらない粗工な愚かな医者のまぐれあたりの功績や、古人より迅速な効果を出していることを見て、『難経』を学ばなくとも良しとしてしまっている。このような人は道において誤らないのだろうか。いや、まことに誤りであると言えるだろう。」

と、いうところでしょう。
ここでは、漢方の薬方の根底の理論を知っている人と知っていない人は同列に語れませんよ、といったことが書かれています。この病気にはこれが効く、この手技が良い、こうすれば治る、ということだけを聞きかじってそれだけで治療にあたるのと、何故それが言えるのかを自分なりに答えが出せる人とでは、全く同じようなことをしていたとしても雲泥の差があるということです。勉強をした人は、その後に起こる身体の反応や効果が予見できるため、さじ加減も行なえますが、ただ聞きかじっただけの人はそれができないため、やもすると人を殺してしまうかもしれません。だから医者(鍼医)になるためには『素問』『霊枢』『難経』を一生懸命勉強しないといけないということになります。
これは現代でも同じで、はり師・きゅう師・薬剤師・あマ指師等、東洋医学に関わる仕事についている人は肝に銘じておかなくいといけないと思います。
今回はここまでです。次回は脈診についてのことになります。

『難経本義諺解』 難經彙考その7 脈診について

難經彙考の続きです。今回は脈診についてです。

晦庵(かいあん)先生、郭長陽(かくちょうよう)(医)書に(はつ)して云く、予、(かつ)(おも)うに、古人の(脈)(お)ける其の之を察すること(まこと)に一道に非ず。然れども、今世に通行する(ただ)(関)尺の法を最要と為す。且つ其の説、難(経)の首篇に(そなわ)る時は、則ち亦た不俚(ふり)の俗説には非ず。故に郭公(かくこう)、此の書(つぶ)さに其の語を載せ、(なら)びに丁徳用が三指を(密)排すの法を取て、以て之を(釈)す。夫れ難(経)は則ち至れり。徳用が法に至りては則ち(われ)(ひそ)かに(おも)う、診者の指に肥瘠(ひせき)有り。病者の(ひじ)に長短有り。是を以て相い求めば、或いは未だ定論為ることを得ず。(けだ)(かつ)(くわ)しく(経)の寸尺を分かつ所以(ゆえん)の者を考うるに、皆な(関)よりして(すす)み、(しり)ぞきて以て魚際、尺澤に(はか)る。是れ則ち所謂(関)は必ず一定の(処)有り。亦た、魚際、尺澤の外見を以て先ず識る可きが若し。然ども今の諸書には皆な的然の論無し。(ただ)千金に以て、寸口の處、其の骨自ら高くして(関)尺皆な是れに因りて(しりぞ)き取ると為すは則ち其の言の先後、位の進退、(経)文と合せざるが若し。(独)り俗間に(伝)る所の脉訣(みゃっけつ)、五七言の韻語の者は、(ことば)最も鄙淺(いせん)にして叔和(しゅくか)が本書に非ざること明らかなること甚だし。乃ち能く直ちに高骨を指して(関)と為し、其の前後を分ちて以て尺寸、陰陽の位を為す。難經本(旨)を得るに似たり。然れども世の高(医)、其の(贋)なるを以て遂に委棄して之を言うことを(は)づ。予、道に(くわ)しき者に非ざれば、以て正すこと有ること能わざるなり。(しば)らく其の説を此れに附見し、以て明らかなる者を俟て折中せん。

廬陵(ろりょう)の謝堅白が曰く、秦定四年丁卯、愚、龍興を授して憲司(けんす)に建言し、請て叔和が脉經(みゃっきょう)の本書十卷を刻む時に、儒學提舉、東陽の柳公道傳、其の端に序して曰く、朱文公の云く、俗傳の脉訣、辭(ことば)最も鄙淺(いせん)。而れども其の直ちに高骨を指して(関)と為すの説を取て難(経)に合えりと為す。文公と雖ども、亦た未だ其の正しきこと脉經(みゃっきょう)に出ることを知らずに似たりと云うは、正に此の(はつ)を謂うなり。然れども、文公、未だ脉經(みゃっきょう)を見ずと雖ども其の(ことば)脉經(みゃっきょう)脗合(ふんごう)す。脉訣は叔和が書に非ずと雖ども、其の人も亦た必ず脉經を(読)むことを知る者なり。(ただ)し、當に自ら七表八裏九道の目を立て、脉經に載する所の二十四種の脉の名義に(あた)うべからず。大いに抵牾(ていご)有り。故に後人をして疑わせしむ。



ここでの内容は、
晦庵(朱子)が郭長陽の医書の後書きに書いたことには、「私がかつて思うに、古人が脈を候うというのは其の脈を察する道がたくさんあって、一道ではないということである。今の世間に広まっている脈道は手の寸関尺の三部の法によるものが唯一の要法である。三部の脈説である寸関尺の法は、『難経』の一、二、三の難に載っているため、これは卑しき俗説でななく、古の正しい方法である。だから郭公の書には『難経』の三部の脈語を書き載せ、それと合わせて丁徳陽の三指を隙間なくならべて候う脈法を取って脈義を註釈しているのだ。そもそも『難経』は医の至理、至道の書である。だからこの脈法に間違いはない。丁徳陽の三指を隙間なくならべて候う脈法においては、私が密に思うに間違いがある。何故ならば、脈を候う医者の指にも肥えている人や痩せている人もいて同じではない。病人の前腕にも長い短いがあって同じではない。丁徳陽はこの三指を隙間なくならべて候う脈法を一例に、諸々の人の脈を相い求めただけで決定の脈論とはしていない。三指を隙間なくならべて候う脈法は、医者の指が肥えていて病者の前腕も短いときに用いると間違いは生じないが、医者の指が痩せていて病人の前腕が長いときに用いると大いに間違いが生じる。そのため三指を隙間なくならべて候う脈法のみで候うのは、脈診の定論とはならない。しかし、かつて詳しく『難経』の寸部、尺部を取り分けた方法を考えてみたとき、全て先ず関部を取り定めてから魚際の方へ進めて寸部を定め、関より尺沢の方へ退いて尺部を定めているようだ。このように関を定め、次に寸尺を定めるのはどうしてなのか。これはいわゆる関部には必ず高骨(橈骨茎状突起)があり、これは疑いようが無い基準であるため、始めに関を定めてから尺寸を分けている。魚際と尺沢は他よりも分かりやすいところである。だから関を立てて寸尺を定めているのだ。三部を候うの法はこのように明らかであるが、今の諸々の書には三部の脈法をはっきりさせているものはない。ただ、孫思邈(そんしばく)の『千金方』にのみある。しかし『難経』の法は先に関を定めた後に寸尺を定めているのに対して『千金方』には寸を言って後に関尺を言っており、『難経』とは合わない。また、『難経』には先ず関を立て、進めて寸を立て、退いて尺を立つが、『千金方』には先づ寸を進め、次に関尺を退いて立てる。このように三部の脈を候う進退も『難経』とは合わない。『難経』の脈法に合わないない諸書の中で、唯一世俗の間に伝わっていた『脈訣』は最も言葉が賤しく、理義が浅い。このことから王叔和の作でないことは明らかである。『脈訣』には直に手掌の後の高骨(橈骨茎状突起)を関とし、高骨の前を分けて寸の陽位とし、高骨の後を分けて陰位としている。『脈訣』は王叔和の本書ではないとはいっても、このように高骨を関とし、これを基準にして尺寸を分けることについては『難経』の本意を得ているといって良い。『脈訣』の三部のやり方は『難経』の本旨に合うとはいっても、世間の名高き医者は『脈訣』の書は王叔和の作ではないことを知るべきである。本来の王叔和の作である『脈訣』(正しくは『脈経』)を棄て、世俗にあった『脈訣』の中の義を言うのを恥ずかしく思っている。私は儒学者であるので医道に詳しいわけではない。故に『脈訣』の法によって是と定め、後世の脈法を正すことはできなかった。しばらくこの『脈訣』の脈説を此の後書きに付け見わして、後の医学に明かるい者に評価してもらい、『千金方』と『脈訣』の両説の同じではない部分の折中を試みてその是非を問いてもらいたい。」と。
廬陵(ろりょう)に住む謝堅白が言われるには、「秦定四年(1327年)に、私は龍興の地で学業を承って文学を教授し、憲司に天子の御文庫にある王叔和の真の『脈経』を請い受け、『脈経』の本書十巻を板に刻んで世に広めた。板行した時に、儒学提挙の役職についている東陽の地の柳公道伝が『脈經』に序を書いて言われるには、「朱子の言われる俗伝の『脈訣』の言葉は最も賤浅である言っても、脈を候う法においては直ちに高骨を指をさして関と為すの説を取って『難経』に合っている。」と。しかし、私(謝氏)が考えるに、朱子ほどの人であっても、高骨を関とする正法を王叔和の『脈經』に出ていることを知らなかったようである。もし『脈経』の本書に正法の出ていることを知っていたならば、『脈訣』の言葉をこれほどに称賛することはないであろう。そのため俗間の『脈訣』のみが『難経』の本旨を得ていると書いたのである。朱子が『脈経』を見ていなかったといっても、朱子が弁じた脈言と叔和の『脈経』の論説は自然に相い吻合して間違いはない。『脈訣』は叔和が書いたものではない偽物であるとはいっても、『脈訣』を書いた人(高陽生)も『脈経』本書の道理を読み知る程の者であった。だから『脈訣』の三部の法は自然と『脈経』の正法に合うのである。ただし、今までいわれていなかった自己の意によって新しく七表八裏九道という脈の名目を立てたため、王叔和の真の『脈経』に載せている二十四種の脈の名義と大いに食い違っている。だから後人には『脈訣』は『脈経』の真書ではないと疑わなければならない。」と。

ここでは脈診の仕方について書かれています。
ここでの議論の中心は、
・『難経』と『千金方』の脈診の仕方が異なっているということ。
・丁氏の脈診のやり方への異議。
・『脈訣』が『難経』の本旨と合うこと。
です。

途中で偽物うんぬんの話がでていますが、朱子の時代には『脈経』が世に出ていなく、『脈訣』が王叔和の作である(本来は高陽生の作)という説がでていたようです。叔和の作ではないので、偽と表現しているようです。
次の謝氏の解説によれば、脈診の仕方については高陽生も『脈経』の本旨を理解していたので、『難経』の脈診の法と合致している、としています。

歴史的なことはさておいて、脈診の法についてまとめてみます。
『難経』、『脈経』、『脈訣』の脈診は高骨、すなわち橈骨茎状突起を関上とし、そこから指をそわした魚際側を寸口、尺沢側を尺中とするやりかた。
『千金方』の脈診は寸口を先に定めて、その後に関上、尺中を定めるやりかた。
と分けることができるみたいです。
どちらがやりやすいかといえば、『難経』系の脈診のやり方になると思います。『千金方』でのやり方は、一回一回診る場所がずれる可能性があり、正しく鍼の効果を評価することができなくなります。やはり基準がしっかりしていないといけません。

また、朱子は『難経』の主旨にあっている丁氏のやり方にも疑問を投げかけています。
丁氏は『難経』の註釈家の一人で、現在では『難経集註』にその註釈をみることができます。ここでの議論はおそらく、三難の後にある「三難の書図」の部分でしょう。ここに上の文と似たようなことが書かれています。

ここでの問いかけは、指の太さ、腕の長さは人それぞれなのに、それを考えずに指を隙間なく並べてしまうとと間違いが生じてしまうのではないか、ということです。
確かに言われてみればその通りです。指の細い術者と指の太い術者がいたとして、この方法で同じ患者さんを診たら、微妙に脈の診る場所が変わってしまいます。この術者二人がこの患者さんをそれぞれ評価し合う時には、寸関尺の脈状から変わってしまう可能性があります。
これをどのように解決すれば良いかというと、腕の短い人には狭め、腕の長い人にはあらけて診るようにすれば、術者によって診ている場所が微妙に変わるということはなくなると思います。
それでも実際には診る場所は変わってしまうとは思いますが。それでもいくぶんはましになると思います。

ここの部分はこんなところですかね。
脈診をしていても、その指を押さえる場所が一回一回定まって無ければ意味をなさなくなるので要注意です。
これは脈診を始めたときには特に意識しなければなりません。どうしても一回一回診る場所がずれてしまいますから。

次はいよいよ「難經彙考」の最終回になります。要穴についてです。

『難経本義諺解』 難經彙考その8 要穴について

「難經彙考」の続きです。
今回は要穴についてです。
ここでは主に五行穴と五藏六府についてかかれています。

項氏が家説に曰く、凡そ經絡の出る所を井と為し、留る所を榮と為し、注ぐ所を兪と為し、過ぎる所を原と為し、行く所を經と為し、入る所を合と為す。井は水の泉に象る。滎は水の(たま)るに象る。腧は水の(あな)に象る。(あな)は即ち(ゆ)の字なり。經は水の流れに象る。合は水の(き)するに象る。皆な水の義に取るなり。
藏は五つにして府は六つ。藏冗は五つにして府穴は六つ。猶お干五つにして支六つ。(声)五つにして律六つ。皆な陰陽の(数)、自然の理なり。手の厥陰の一藏を増やすと雖ども、其の(実)は心の包絡にして心に異ならず。即ち一藏にして二經なり。經の必ず十二と為ることは、猶お十二支、十二辰、十二月、十二律の十一為らしむ可からざるがごとし。亦た自然の理なり。寅卯は木と為し、巳午は火と為し、申酉は金と為し、亥子は水と為す。四行皆な二支のみにして土行(独)り辰戌丑未の四支に(あた)りて、以て十二と成る。肺肝脾腎の四藏、皆な二經にして心と包絡と、共に四經に(あた)りてりて以て十二と成る。此れ豈に人の能く為す所とならんや。

彙攷終



ここでの内容は、
項平庵先生の家説では、「そもそも、経絡の始めて出る所を井穴とし、流れ溜たる所を滎穴とし、灌注する所を兪穴とし、過ぎ行く所を原穴とし、行き経る所を経穴とし、入藏する所を合穴とする。井穴は水源を象り、滎穴は溜っている水を象り、兪穴は水の穴を象り、経穴は水の流に象り、合穴は水の帰入を象っている。これらは全て水を象っている。
藏は肝心脾肺腎の五つで、府は胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦の六つである。五藏の要穴は五つあり、六府の要穴は六つある。また、十干のうちの陽干(甲、丙、戊、庚、壬)と陰干(乙、丁、己、辛、癸)は五つずつであり、十二支のうちの陽支(子、寅、辰、午、申、戌)と陰支(丑、卯、巳、未、酉、亥)は六つずつである。声は宮、商、角、微、羽の五つ、十二律のうち陽律(黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射)は六つ、陰律(大呂、夾鐘、仲呂、林鐘、南呂、応鐘)は六つである。陽は奇数、陰は偶数。今藏穴は五つ、干五つ、声五つ。全て奇数で陽の数である。府穴は六つ、支六つ、律六つ。全て偶数で陰の数である。これは陰陽が相い配合する自然の道理である。藏は五つあってその要穴もまた五つである。しかし、経脈の配合においては手の厥陰心包経の一藏を増して六臓とするとるが、心包は正しき藏ではない。実は本心を包む経絡であって、本心と異なるものではない。つまり、本心と心包は元々一つの藏であり、経のときには手の厥陰心包経と手の少陰心経とに分かれて二経となっている。故に経脈の配合では六藏で、正藏の数は五つなのである。正藏は五つありながら経脈配合の数は必ず六陰六陽の十二経となるのは、支の数十二、時の数十二、月の数十二、律の数十二となって、十一にならないのと同じである。これもまた、自然の理である。寅卯は木とし、巳午は火とし、申酉は金とし、亥子は水とする。五行のうち、木、火、金、水の四行は全て二支ずつを主っているだけだが、土行だけ辰戌丑未の四支を主っている。四行が主っている八支と合わせて十二支となる。人の肺肝脾腎の四藏は一藏二府相い配合して全て二経ずつで合わせて八経となる。本心と心包は共に一藏であるといっても、これが四経にあたる。つまり心と小腸、心包と三焦である。八経と四経を合わせて十二経となる。このように人の身体は天地より自然とこのように恩恵をうけているものなのである。」と。
彙攷終

と、なるでしょう。ここでは鍼灸師にとって重要な五行穴と五藏六府について書かれています。
五行穴に関しては、参考として岡本一抱子の注釈も載せておきます。

凡そ經絡の出る所を井と為し、留る所を榮と為し、注ぐ所を兪と為し、過ぎる所を原と為し、行く所を經と為し、入る所を合と為す。
井栄腧原経合の義は、霊枢の本腧篇に詳らかなり。凡そ諸経に各々要穴あり。五藏の経には各々井栄兪経合と云て、要穴五つづつあり。六府の経には各々井栄兪原経合とて要穴六つづつあり。鍼を施す者は之を明らかにすることを用とす。
○凡そ経絡の始めて出る所を井穴と為し、其の流れ溜たる所を栄穴と為し、其の灌注する所を腧穴と為し、其の過ぎ行く所を原穴と為し、其の行き経る所を経穴と為し、其の入藏する所を合穴と為す。


井は水の泉に象る。
泉は井水の始て一滴湧き出る所を云う。泉源の其の始めて一滴湧出る所は甚だ深くして微なり。人身諸経の井穴の氣は深くして微なり。水の井泉の始めて湧き出る所の深く微なるに象りて井穴と号(な)づく。

滎は水の陂るに象る。
井は始めて出る所の源なり。栄は小水なり。泉の始めて出て、始めて陂(たま)る所の水は小にして亦た深し。蓋し其の源、本微なるが故に始めて陂る所も亦た小なり。人の栄穴の氣は井穴よりも微(すこ)しく盛んと雖ども、なお微小にして彼の井穴の水、始めて出て、始めて陂(たま)りて小なるに象る。

腧は水の竇に象る。
竇(あな)は水洩れ出る所の道を云う。栄は水の始めて陂(たま)る所なり。其の陂(たま)る所の小水、稍(や)や蓄えて始めて洩れ出て流れんとするを竇(あな)と云う。竇(あな)は陂(たま)るの稍(や)や盛んなる者なり。人の腧穴の氣は栄穴の氣よりは稍(や)や盛んなり。故に水の竇(あな)に象るなり。

竇は即ち窬(ゆ)の字なり。
竇(あな)の字は即ち古の窬(ゆ)の字なり。人の兪穴の兪の字と竇窬(とうゆ)の字と、此れ即ち相い通ぜり。
○愚案ずるに、霊枢に或いは腧に作り、或いは兪に作り、或いは輸に作る。馬氏が曰く、輸兪腧の三字、古通用す。輸は其の脈気の傳輸を以てなり。兪は省により、腧は肉によると。輸を本字とす。脈気の是に傳(めぐ)り輸(いた)すを以ての名なり。然れども輸字の畫(かく)多きが故に、車を省きて唯だ兪に作り、或いは人形の穴名たるが故に車を以て肉片(にくへん)に代用す。腧兪輸三字通用すべし。


經は水の流れに象る。
腧は陂(たま)りし水の始めて流るべき道の出て來るを云う。經は水、漸(ようや)く盛んにして能く大いに流れ経るの義に取る。人の経穴の氣は輸よりも漸く盛大にして、水の能く流行して盛んなるに象るなり。類注曰く、脉氣大いに経り行きて此に営す。其れ正に盛んなり。

合は水の歸するに象る。
水は地中より出て、又地中に皈入(きにゅう)す。人の合穴の氣は盛んにして且つ深し。彼の諸の流水の聚まり合わせて皈入(きにゅう)するに象る。

皆な水の義に取るなり。
井栄腧經合の義は、皆な其の義理を水道に取るなり。蓋し人の経絡流行の道は地中の水道と同じ。故に霊枢に経水篇ありて、地の十二水を以て人の十二経絡に相い配せり。是れを以て井栄腧經合の義も水に取るなり。
○霊枢には溜る所を栄と為す。と。馬氏曰く、溜と流と同じ。類注曰く、急流を溜と曰う。と。案ずるに、水の始めて出るは井なり。出て始めて溜(なが)れ留(とど)まるは栄なり。然る時は霊枢の灌の字中に留の義あり。此の書の留の字中にも亦た溜の義を存せり。
○或る人問う、家説に井栄腧經合の五字を釈して未だ過ぎる所を原と為すの釈に及ばざる者は何ぞや。曰く、原穴は府経に在りて藏経には無しとす。藏経は兪を以て原に配(あらわ)す。然る時は則ち注ぐ所を兪と為すの義と過ぎる所を原と為すの義と同じかるべし。且つ、井栄兪原経合は毎経の氣の淺深を分て五名を立つ。井の氣は甚だ深くして微なり。此れより次第に漸く盛んに進みて栄兪経合に至る者なり。原穴の氣は兪よりは盛んに、経よりは小なるべしとす。故に霊枢に注行の間を取て、唯だ過ぎる所を原と為すと云う者か。
○或る人問う、出る所を井と為すと。井穴は皆な手足四末に在り。経脉の四末に起こる所の者は實に然り。其の藏府より起こり出て四末の井穴に終わる者は何を以てか出る所を井と云わんや。曰く、出る所を井と為すの義は、経脉の發源に非ず。井穴の氣は深くして微なり。井泉の始めて出るが如き所を井と為すの義なり。如の一字を含みて視る時は則ち其の義理照然たり。水の出るが如き所を井穴と為すし、水の留るが如き所を栄穴と為すの意に取るべし。


これで「難經彙考」は終わりです。
長かった…。本来はこの後に「難経本義図」があるのですが、これは省略します。

次は本文の『難経』一難になります。

これからの『難経本義諺解』について

こんばんは。『難経本義諺解』ですが、これからやり方を変えていこうと思います。

『難経本義諺解』の書き下し文のみと、そのポイントをまとめたものの2つの記事をセットにしてやっていこうと思います。

書き下し文に関して、今まで丁寧に読み方と常用漢字のルビを振っていましたが、これからはそれも無しで原文をほぼそのまま挙げたいと思います。

実はルビ振りに一番時間がかかっていまして、正直めんどくさいそれが更新頻度を下げる要因になっているのと、チェックでかなりしんどいからです。

そして、考察部分を別にすることで、「古典なんてよ~わからんよ」という人でも多少は分かりやすくなるんではなかな~と感じています。
考察部分は、基本的に岡本一抱の説を紹介していきますが、『難経本義』以外にも、『難経集注』や『難経鉄鑑』等の意見とかも取り入れていきたいと思います。
どこまでこれも続くかわかりませんが、長くお付き合いください。
プロフィール

kouitsu

Author:kouitsu
新米鍼灸師です。
元々違う分野を勉強していましたが、ある時身体の調子をくずしてしまい、その過程で東洋医学に興味を持ちました。

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