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『難経本義諺解』 滑伯仁の自序

今回は、『難経本義諺解』滑伯仁の自序です。4つある序の一番最後になります。

難經本義序
第一段
(経)本義は許昌の滑(寿)、難(経)の義に本づきて之が説を(つく)るなり。難(経)は相い(伝)えて渤海(ぼっかい)の秦越人の著す所と為す。(しか)れども史記に載せず。隋唐書(とうとうしょ)經籍(けいせき)藝文志(げいもんし)(すなわ)ち秦越人、黃帝八十一難經二卷の目有り。(あ)に其の時、門人弟子(ひそ)かに相い授け受けて太史公(たいしこう)偶々(たまたま)之を見るに(およ)ばざるや。(これ)を史記の正義及び諸家の説に考うるに、則ち越人の書為ること(しい)ず。

第二段
(けだ)し黃帝素問(霊)(枢)(旨)に本づきて、設けて問答を為す。以て疑義を(釈)す。其の間、(栄)衛の度數、尺寸、部位、陰陽、王相、(蔵)府、内外、(脈)法、病能と、夫の(経)絡流注、鍼刺、兪穴と該ね備えざると云うこと莫し。其の(辞)(つつまやか)にして其の義を博くし、前聖を(ひろ)くして後世を(ひろ)き、生民の為に(おもんぱか)る所以の者、至りて深切なり。

第三段
歴代以(来)、註家相い(ふ)みて無(すべて)(数)十。然れども、或いは之を繁に失し、或いは之を簡に失し、醇疵(じゅんし)殽混(こうこん)の是非攻(撃)す。且つ其の書、華佗(かだ)煨燼(かいじん)(余)りを(経)て、(欠)文、錯簡(さっかん)遺憾無きこと能わず。夫れ天下の事、其の故きに(したが)う時は則ち其の道立つ。其の源を(深)する時は則ち其の流れ長し。其の義に本づきて其の(旨)を得ざる者は、未だ之有らざるなり。上古(じょうこ)易書の(ごと)き本卜筮(ぼくぜい)の為に設く。(し)朱子(しゅし)象占(しょうせん)に推し(もと)づきて本義を作り為し、四聖の心以て明らかなり。難經本義(ひそ)かに諸此に取るなり。

第四段
是の故に之を(枢)素に考え、以て其の(みなもと)を探り、之を仲景(ちゅうけい)叔和(しゅくか)に逹し、以て其の(ちょ)(釈)す。凡そ諸説の善なる者は、(あま)ねく(か)りて博く之を致す。(欠)文、(断)簡は則ち委曲(いきょく)にして以て之を求む。(な)お、先儒經を(と)くの(変)例を以て疑いを(つた)う。於乎(ああ)、時に先後有り、理に古今無し。其の義を得れば、(ここ)に其の理を(う)。其の理を得る時は則ち作者の心、百世に(ほがら)かにして(ほか)ならず。(しか)りと(いえ)ども、(こ)の義や、(あ)えて自ら其の(すで)に至れりと謂うにはあらず。後の君子、其の(およ)ざるを見て、改めて之を正せば、亦た(む)べならずや。

至正 辛の丑 秋九月酉朔 自序



今回は滑伯仁の自序です。
ここでの内容は、

第一段
『難経本義』とは、私、許昌の滑寿が『難経』の真義に本づいて『難経』の注釈をつくったものである。『難経』は、昔から勃海の秦越人(扁鵲)が著したものだと伝わってきているが、司馬遷の『史記』には載っていない。『隋書』経籍志、『旧唐書』芸文志になってからようやく「秦越人、黄帝八十一難経 二巻」の目録がある。おそらく『史記』の編纂時に、越人の門人・弟子が『難経』を師から秘密裏に授かったので、司馬遷も『難経』を見ることがなかったからではなかろうか。『難経』は秦越人の作かどうかを『史記正義』や儒医家の説から考えてみると、やはり秦越人の作であることは疑いようもないだろう。

第二段
そもそも『難経』は、『素問』『霊枢』の趣旨に本づいて越人自ら問答の言葉を作り、内経の分かりにくいところや、決めどころにかけるものを解釈している。『難経』は全部で八十一篇あるが、その中には営衛、経脈の度数、寸尺三部臓腑の脈位、脈の陰陽、王脈、四時相應の脈、藏脈、腑脈、内証、外証の脈法、病能、十二経と奇経の流注、鍼の刺し方、兪穴というように、医道のやりかたを詳しく説明している。言葉は簡潔であって内容が深い。『難経』は岐伯の医道を推し広めて後世の学者を導き、人々の病患、夭死を救うために、この様に医道を思慮していてとても医道を究めている。

第三段
越人が『難経』を作ってから代々、『難経』の注釈をしてきた医家は数十人いた。その中には諸説をたくさん引いたり言葉を多くしたりして『難経』の本理を失う者もいれば、言葉や理義を簡略にしすぎて『難経』の本意を失う者もいた。注釈の善いものや悪いものが入り乱れている。そのため『難経』本来の理義が分からなくなり、経意を損なってしまっている。そのうえ、今の『難経』は華佗が燃やした焼け残りから出来ているのため欠文や錯簡が多い。このように考えると、『難経』の本来の意義が分かり分かり辛らくなっているので遺憾に思っている。天下一切のことは上古より続いてきたのため、医道の道を昔に従って行なえばこれからもその道は続く。その源を深くすればその道は長く続く。経書の理義を求めてその本源に推し本づいて尋ねていけば、その奥旨、本意を得ることができるだろう。上古の易書はもともとは卜筮をする為に作られた。朱子は象に本づいて『周易本義』を作った。それによって伏羲、文王(姫昌)、周公(姫旦)、孔子の四聖の心が明らかになった。『難経本義』の名前はこの『周易本義』から取らせてもらっている。

第四段
根源の義に推し本づかないとその奥義を得難いので、この『難経本義』の注解を作った。そもそも『素問』『霊枢』によって『難経』の源を探り求め、張仲景の『傷寒論』や王叔和の『脈経』といった様々な古典からも余すことなく医道を尋ね引いたので、元の源流を余すことなく求めて注釈している。それぞれの注説のなかでも、理義の合うものは隅々まで残さず求めたので、広く『難経』本来の意味を推しはかれただろう。昔の儒経を注釈するときは、類例にしたがって、『難経』の正文に或いは欠文、誤字、或いは衍文、断簡などあることが分かったならば、すぐさまその箇所を改めるためにその箇所を削除し、正しい言葉に変えるということをしない。本文には旧例を残して変えていない。欠文、誤字等の疑わしいところがあれば、注釈のなかでいちいち述べている。あぁ、時代に「先代」、「後代」の違いはあっても、道理には「今の道理」、「昔の道理」という区別はないなぁ。だから『難経』の本源の奥義を得れば、『難経本義』で『難経』の道理を得て、『難経』の本理を得れば作者の心意は百世の後にあっても広く明らかにされるだろう。『難経』の理義や旨意を会得できないわけがない。この『難経本義』の注釈にも誤るところはあるだろう。後世の高名な人よ、私の注釈の及ばないものをみつけても、その誤りを改めて正さないのは良くない。それは伯仁の意思を考えても実に良いことであるので、遠慮なく指摘してほしい。

至正 二十一年(1361年) 秋の九月一日 自序す。

というところでしょう。
滑伯仁自らの序ということもあって、どうしてこの『難経本義』を書いたかの理由も書かれています。
それについては内容をみてもらえればよいでしょう。

気になる所は、
四聖の心
四聖とは伏羲、文王(姫昌)、周公(姫旦)、孔子の4人のことです。すべて八卦を発展させた偉人とされます。
伝説では、伏羲が八卦を作り、文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼を作った。とあります。
つまり、『難経』は医道の本源が述べられているということになります。
これに関しては今までの序でも散々言われてきたことですね。

あと、第四段の最後。自分の註釈も間違えている可能性もあるから、間違っていたら正してほしいという姿勢です。医道の道を究めるには誤りは正し、正しいものは正しいと認識する事が第一ということでしょう。

これで自序は終わりです。
次は「難經彙考(なんぎょういこう)」です。少し長い文章になるので、いくつかに分割するかもしれません。
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kouitsu

Author:kouitsu
新米鍼灸師です。
元々違う分野を勉強していましたが、ある時身体の調子をくずしてしまい、その過程で東洋医学に興味を持ちました。

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