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『難經本義諺解』 難經彙考その1 『難経』について

今回から難經彙考(なんぎょういこう)にはいります。
難經彙考はかなり長いので、書かれている内容ごとに分割していきます。
今回は『難経』の歴史や名前の由来などについての部分です。

難經彙考
史記の越人(伝)に、趙簡子(ちょうかんし)虢太子(かくたいし)(さい)桓侯(かんこう)の三疾の治を載せ、難(経)を著すの説無し。隋書(ずいしょ)經籍志(けいせきし)唐書(とうしょ)藝文志(げいもんし)に、(とも)秦越人(しんえつじん)黄帝八十一難經(こうていはちじゅういちなんぎょう)二卷の目有り。又た唐の諸王の侍讀(じどく)張守節(ちょうしせつ)が史記の正義を(な)し、扁鵲倉公傳(へんじゃくそうこうでん)(お)いて、則ち全く難經の文を引きて、以て其の義を(釈)す。(伝)(しり)えに全く四十二の難、第一の難、三十七の難との全文を載す。此れに由る時は則ち知んぬ、(いにしえ)より(伝)えて以て秦越人の作る所の者と為すこと(し)いならざるなり。其の問を設くるの(辞;ことば)(つまび)らかにするに、經に言くと(称;しょう)する者は素問、靈樞(霊枢)二經の文に(お)いて出でる。靈樞(霊枢)に在る者(もっと)も多し。亦た二經に(あら)わるる所無き者有り。(あ)に、越人別に古經を(ひろ)い、或いは自ら設けて問荅を為すこと有るか。邵菴(しょうあん)(ぐ)先生(かつ)て曰く、史記に越人難經を著すことを載せず。(しか)れども隋唐書(ずいとうしょ)經籍(けいせき)藝文志(げいもんし)に定て越人難經の目を著す。史記の正義を作る者は直ちに難經の(数)章を載す。愚(おも)えらく、古人、經に因て難を設け、或いは門人弟子と答問して偶々(たまたま)此の十一章を得るのみ。(いま)だ必ず經の(まさ)に難すべき者の此の八十一(じょう)(とど)めず。難は經に由て(発)す。(ひと)り言を立てず。(か)つ古人は名を書に(たく)することを求めず。故に之の(つた)わる者、(ただ)專門名家のみ。其の後、流傳(るでん)(や)(広)く、官府(かんぷ)得て以て録して其の目を著わし、註家得て以て引きて文を成すのみ。

圭齊(けいさい)歐陽公(おうようこう)が曰く、(みゃく)を手の寸口に(せつ)にすること、其の法、秦越人より始むる。(けだ)(医)者の祖為り。難經は先秦の古文、漢より以(来)、客の難に(たっ)せし等の作。皆な其の後に出づ。又た文字相い質難(しつなん)の祖なり。楊玄操(ようげんそう)が序に謂く、黄帝内經二(ちつ)有り。其の義、幽頥(ゆうさく)にして(ほと)んど究め覧難し。越人、乃ち二部經の内の精要、(すべ)て八十一章を採摘し、其の道を伸演して八十一難經と名づく。其の理趣(りしゅ)深逺(しんえん)にして(そつ)(さと)し易きに非ざるを以ての故なり。

紀天錫(きてんしゃく)が云く、秦越人、黄帝素問疑難の義、八十一篇を(も)て重べて之を明かにす。故に八十一難經と曰う。

宋の治平の間、京兆の黎秦辰(りたいしん)虞庶(ぐしょ)が難經の注に序して云く、世に傳う黄帝八十一難經、(これ)を難と謂うは人の五藏六府、内に隠るるを以て邪の為に(お)す所測り知るべからず。唯、脉理(みゃくり)を以て其の彷彿(ほうふつ)を究むるに非ざることを得んや。脉は重さ十二(しゅく)と云う者有り。又た車葢(しゃがい)を按すが如くして雞羽(けいう)(な)づるが若しと云う者有るが若し。復た、内外の(証)(考)えて以て之を(参)校す。其れ難からずや。按ずるに、(おう)(ぐ)が説は則ち難の字、(まさ)去聲(きょせい)と為すべし。(余)りは皆な奴丹の功(ぬたんのせつ)なり。

丁徳用(ていとくよう)が補註に題して云く、難經が歴代之を一人に(伝え;つた)う。魏の華佗(かだ)に至いて、乃ち其の文を獄下に(や)く。晋宋の間に於いて、仲景(ちゅうけい)叔和(しゅくか)の書に有ると雖ども、然れども各々其の文を(み)るに、其の説を濫觴(らんしょう)す。呉の太醫令(たいいれい)呂廣(りょこう)に及びて此の經を重ねて編む。而れども尚お文義差迭(さてつ)す。按ずるに、此れ則ち難經は燼餘(じんよ)の文為り。其の編次、復た重ねて呂廣が之の手を經て、(まこと)缺失(けっしつ)無きこと能わず。



まずはここまでです。
ここでの内容は、

『史記』扁鵲倉公伝には、扁鵲が趙簡子、虢の太子、斉の桓侯を治療した話を詳しく載せているが、『難経』を記したという話は載せていない。それから後の『隋書』経籍志、『唐書』芸文志になってようやく「秦越人、黄帝八十一難経 二巻」という目録がある。また、唐の侍讀である張守節が著した『史記正義』には、扁鵲倉公伝の注において『難経』の本文を引いて『史記』の扁鵲の伝の義理を注釈している。張守節は扁鵲伝の後ろに『難経』四十二難、一難、三十七難の全文を載せているのだ。このことを考えると、昔から脈々と伝わってきた『難経』は、秦越人の作であることは疑いようもないだろう。『難経』の問答の言葉を考えて見ると、「経に言く」とするものは、『素問』『霊枢』から出ている。なかでも『霊枢』にようるものが最も多く、今の『素問』『霊枢』にはない部分もみられる。越人は『素問』『霊枢』以外の古経から引いてきたのだろうか、それとも自ら問答の言葉を作ったのだろうか。邵菴に住まわれている虞集(字は伯生)先生がかつて言われたことには、「『史記』には越人が『難経』を著したこと載せていない。しかし、後の『随書』経籍志、『唐書』芸文志には「越人難経」の目録を載せて定めている。『史記正義』を著した張守節は、自ら著した書に『難経』の数章を載せている。これに関して虞はこう思う、「伯仁は内経によって難義の問いを設けるか、或いは越人自ら難問をたて、それを門人弟子と互いに問い、答えているうちに、たまたまこの八十一篇のみを得た。それは内経の中の問難すべき所がこの八十一に止まって、これより他に問難すべきことが無いということではない。越人は自ら問難の言葉を作らず、難は全て内経の中から作った。そして昔の人は書を著してもそこに自分の名前を書くことはしなかった。だから越人が『難経』を著したことが世間に広まらなかったのだ。そのため、『難経』を伝えた人も多くなく、ただ医の専門家や名のある医者にしか伝わらなかった。その後徐々に世に広まるようになり、ついには随、唐の官府にも『難経』があることが知られるようになった。こうして目録が作られたのである。『史記』の注釈家である張守節も『難経』を見る機会を得て、『難経』の言葉を引いて『史記』の越人伝の注文を作るにいたったのだ。」と。

圭齊に住む歐陽玄が言われるには、「そもそも、脈を診る時に手の三部寸口において切にする方法は秦越人より始まったのである。だから越人は後世の脈を診て病を治す医者の元祖なのである。」『難経』は先秦の焚書を免れた古文である。東漢の張仲景より以来、客の難問に答える等の作為は全て『難経』以後に出来たものである。そのため、『難経』は文字によって相い答えて問難するものの元祖である。楊玄操が『難經注釈』を作った時に、その序に言う。「『黄帝内経』には『素問』と『霊枢』の二つある。『内経』の義理が少しで分かり難く、後人がその理を究めてその意味を覧難い。越人は『素問』『霊枢』の内の義理の精微である大切なことを集めて内経の道を『難経』の問答に述べ、其の八十一章の問答の書を八十一難経と名付けたのである。『難経』に問答する所の経の理義、意趣はいたって深く、いたって遠いので、すぐに理解することはできないものを選んで問答している。故に『難経』と名付けているのだ。」と。

紀天錫が言われるには、「秦越人は『素問』『霊枢』の中より其の理の深く、疑わしく、理解しにくい部分を挙げて問答すること八十一篇ある。これは全て『内経』の言葉を重ねて『難経』に挙げて其の理を明らかにしているから、『難経』は『内経』の疑難の義を八十一篇に述べているものである。だから『八十一難経』と名付けているのである。」と。

宋の治平の間、京兆の黎秦辰が虞庶の『難經注』に載せて言うには、「世に伝わっている『黄帝八十一難経』の難の字の意味は、人の五藏六府は皮肉の内に隠れており、もし邪によって藏府の侵され、傷られることがあったとしても、外からは測り知ることはできず、ただ気功人迎などの診脈の理でないと、その疑わしく、見分け難いものを定め究めることができない、というところにある。人の藏府が病を受ければ、わずかの脈理によってその定め難きところを究めることができる。だが、診脈の法におていも、また十二菽の重さであると言ったり、或いは車蓋を押したり、または鶏の羽をなでるような感じと表現したりして、簡単に診ることは難しい。だが、脈によって内証、外証を考えて分け、かれこれ脈理を参考にすれば、知り難く、得難きことではなくなる。今、『難経』の問答は全て脈症の知り難く、得難き道を述べている。だから『難経』と名付けているのだ。」と。
私、滑伯仁が思うに、歐陽玄や虞庶の説は難の字を「去声」にして解説している。他は全て「奴丹の功」である。

丁徳用が自身の『難経補註』の序に言われるには、「『難経』の書は上古より代々一人ずつに伝授して、深く秘密にしてあったので広く世に伝わることはなかった。それが魏の華佗のときに『難経』の書文を獄下に焼かれた。晋宋の代の間に張仲景の『傷寒論』、王叔和の『脈經』などの書があったといっても、それぞれの文章を見てみると全て『難経』の論説でほとんどどがしめられている。また、華佗が焼き余りの『難経』を呉の太醫令である呂廣が編み正して全書としたが、『難経』の文字、義理の次第が上古の越人のときとは違うところがある。私、丁徳用が考えるに、後世に残っている『難経』は、華佗が焼き余りの文書で乱雑になっていたのを後に呂廣が編み整えて全書とした。今の『難経』は一度焼け損なって呂廣の手によって編みなおされており、或いは文字が欠けていたり、篇章も無くなっていので残念である。」と。


長い文章でしたがこんな感じでしょう。ここでは『難経』の名前の由来と伝承に関する事柄について、いろんな医家の説を紹介しています。今までの序と似たようなこととが書かれてるので特に問題ないと思います。

次も「難經彙考」の続きになります。
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Author:kouitsu
新米鍼灸師です。
元々違う分野を勉強していましたが、ある時身体の調子をくずしてしまい、その過程で東洋医学に興味を持ちました。

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